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丁寧な暮らしは禅である

「丁寧な暮らし」という言葉がある。

2010年の半ば頃からメディアでよく目にするようになった単語だ。

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メディアでちょくちょく見かける割に、定義も特になく基準も曖昧だが

・手作りでお菓子や保存食などを作る。※出来る限り添加物などは使わない

・裁縫や編み物をする

・ナチュラル素材の服や小物を使用する

このあたりが多くの場合イメージとしてあがりそうだ。

要はちょっとこだわりや細やかでゆとりのある生活のことだろう。

それは自体は何も否定されることではないし、身体にも精神にも良さそうだ。

丁寧な暮らしに憧れる人が多い一方で、批判めいた意見も少なくない。

丁寧な暮らしについて自分なりに思うところがあるので、それについて書く。

まず結論から言ってしまうと、丁寧な暮らしというのは「禅」だと思う。

どういうことか説明していく。

「禅」とはなにか?

まずはじめに「禅」について話そう。

※僕の個人的な理解なので間違っている部分あればすみません。

禅は、精神を統一して真理を追究するという意味のサンスクリット語を音訳した「禅那」(ぜんな)の略で、坐禅修行をする禅宗をさす言葉だ。

禅を含め、仏教の最終的な目的は「悟り」を開くことなので、禅は悟りを開く為の修行方法の一つと考えて貰えばいい。

みずからを律し、万物に感謝し、ムダを省き、生き方を見つめ直することで、迷いから開放された状態=悟りを得ることができるとされていく。

禅といえば、座って行う「座禅」がイメージされると思うが、あれは禅の修行の一環であって、読経するとか、掃除をするなどの修行もある。要するに心を鍛えるのが禅の修行なのだ。

ここで大事なのは、禅というのは「悟り」を得る為の手段なのであって、それ自体が目的ではない。

心を整えて、自分を見つめ直していけば「悟り」が得られると信じられているからやっているだけだ。

そもそもを言えばなんで「悟り」を開きたいかといえば、この世は悩みや苦しみに満ちているので、その苦痛から開放されたいからだ。

目的の為の手段、それが禅だ。

丁寧な暮らしも同じではないだろうか?

なぜ、丁寧な暮らしをしたいかというと、心に余裕を持ちたい、健康的な生活をしたいなどの欲求があるからだ。ではなぜその欲求があるかといえば、突き詰めれば「幸せ」になりたいからだ。

スタイルではなく、目的の方に主題が置かれるべきだ。

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しかし、どうも丁寧な暮らしにおいては手段の方に重きが置かれている気がしてならない。

たしかに、添加物を使わない手作りの料理は身体にいいかもしれないし、部屋はきれいに整理整頓されて毎日掃除をした方が生活の質は向上するだろう。だけど、これらの作業はある一定のクオリティを保とうとするとけっこうシンドいのだ。特に仕事をしたり、子育てをしたりするなど、家事だけに専念できない状態では尚更だろう。

けっして楽ではない行為を常に続けることで心に余裕は生まれるのか?

座禅を組む時に、木の棒で肩などを叩かれている光景を目にしたことがあると思うが、あれは「雑念があるぞ」「修行に集中しろ」などの警告を込めて叩いている。

丁寧な暮らしに憧れて、実践するのはいい。だけど、「毎日料理手作りするのシンドい」「掃除なんて2〜3日に一度でもいいやろ」などと心の底では思いつつ、丁寧な暮らしをしているようなら雑念だらけだ。

勿論、続けるうちに慣れてきて早く出来たり、自然に出来るようになることもあるだろう。

ハンターハンターのネテロ会長だって、感謝の正拳突き1日1万回を行うのに、初日は18時間以上かかりながらも、ひたすらそれのみに没頭することで2年後には1時間を切って行えるようになっていた。

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ただ、丁寧な暮らしってそこまでしてするものなのか?普通に生きる人々は修行者でもなんでもないのだから、そこまでストイックに生きる必要はあるのか?

禅や仏教の修行内容が、目的は同じでも個人や流派によって差異があるように、丁寧な暮らしも思い描くものは一人一人違うだろう。

だから、自分の理想とする丁寧な暮らしが果たして自分に実現可能か、無理なくできるレベルなのかはよく考えた方がいい。

目的は幸せになることなのだから、そこまでストイックになる必要はない。

先日話題になっていたこれらのツイートは根本に「手作りの料理は買ってきた料理よりも素晴らしい」などの思想があることで起きた事象だと思われるが、その考えは本当に素晴らしいものなのだろうか?

数百円だせば、びっくりするくらいクオリティの高い惣菜がすぐに手に入る中で、わざわざ手作りにこだわる理由はあるのか?

勿論、惣菜は添加物が入っていたり、油ものが多かったりして健康的にあまり良くない、などの意見もあるだろう。

しかし、全てを0-100で考えず、時には惣菜や出来合いのものを取り入れればいいのだ。疲れ果てた日に料理を全て手作りする必要はないし、毎日作らなければいけないお弁当にレトルト食品が入っていても、悪いことはまったくない。要はバランスだ。

手作りの料理が健康にいい、からと言って無理して毎日手作りの料理に拘り、結果心に余裕がなくなり、家族に対してちょっとしたことでもイライラしている状態は幸せなのか?

そもそも、なんで手作りの料理に拘ったかといえば、家族に喜んで欲しい、家族の健康を考えてのこと、つまりは家族の幸せを願ってのことだったはずだ。イライラして喧嘩ばかりしていて家族は幸せなのだろうか?

また、丁寧な暮らしというのはある程度の生活水準が担保されている環境でこそ出来るのだ。明日の食べるものさえ定かでない状況ではスタイルとしての丁寧な暮らしは絶対に出来ない。

そして、生活レベルが保証されているということは、科学技術やテクノロジーの恩恵を受けているということであり、過度に自然でないもの、環境に良くないものに忌避感を抱くのはなんか矛盾している気がする。

環境に配慮することや、持続可能性は重要な観点だが、だからといって明日から狩猟して生活していた石器時代には戻れない。

バキの範馬勇次郎は、刃牙と食事を共にするシーンで加工食品のメカブを食べながら

「防腐剤…着色料…保存料… 様々な化学物質 身体によかろうハズもない。しかし、だからとて健康にいいものだけを採る。これも健全とは言い難い。毒も喰らう 栄養も喰らう。両方を共に美味いと感じ血肉に変える度量こそが食には肝要だ。」と刃牙に諭した。

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現代を生きる上で必要なのはこの考えではないだろうか?

過度に健康志向によりすぎることもなく、かといって楽だからとレトルト食品や加工食品ばかりとるでもなく、健康によいものと(広義で)健康に悪いものを一部許容し、バランスよく暮らすべきではないだろうか?

生きてるだけで、誰だって少しは不健康なんだから。

丁寧っぽい生活を否定はしないが、それで心が摩耗するならやめたほうがいい。

丁寧な暮らしの動画を毎日毎日アップして、編集に追われ、サムネとタイトルに悩み、再生回数といいね数に一喜一憂するのはその人が本当にやりたかったことなのか?

丁寧な暮らしの様子をSNSにアップする方々は他の人の投稿を見て「フッ、まだその程度の"丁寧な暮らし"しかしていないのか。私の勝ちだな」などと丁寧な暮らしと真逆の価値観で絶対にマウンティングをとっていないと言えるのか。

無理しすぎることなく、さりとて怠惰になりすぎないように、生活するのが良い。

それが本当の丁寧な暮らしではないないだろうか。

極論、カップラーメンを拘りぬいて選び、ミネラルウォーターでお湯を沸かし、ゆっくり味わうように食べれば十分に丁寧な暮らしだと思う。心にゆとりがある生活とはそういうことのような気がする。※勿論、毎日カップラーメンでは健康に良くないので控えたほうがいいけど。


「手作りのジャム、自然食品、オーガニックコットンの洋服?それらがないと丁寧な暮らしができないとでも?丁寧な暮らしとは心の所作 心が正しく形を成せば想いとなり 想いこそが実を結ぶのだ!!」

心が大事。

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