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何気ない日々の中で(漆黒編)【短編小説】

一年前、妻が逝ってしまった。

いつも明るくて、誰からも好かれ、しっかり者の妻だった。まさかこんなにも早く、家族の前からいなくなるなんて考えもしなかった。

当時、長女の茜音(あかね)は大学2年生、長男の碧生(あおい)は19才の会社員、二女の真白(ましろ)は高校1年生だった。パート先から妻が倒れたと連絡が入り、急いで病院に駆けつけだが最後には間に合わなかった。くも膜下出血だった。

突然妻を亡くしてしまいどうしていいかわからず、ただ茫然する事しかできなかった。妻との出会い、結婚、子どもたちの誕生などたくさんの出来事が頭の中を駆け巡る。人の死がこんなにもあっけないものかと未だに現実を受け止めきれずにいる。

「父さん、ねえ父さん。聞いてる?」

茜音が夕食を食べながら話しかけてきた。

「ん?父さんの味噌汁…おいしくないか?」

「ちがうよ。味噌汁おいしいなと思って。」と茜音が笑顔で答えた。

妻がいなくなってから始めた料理。最初はうまく作れなかった。でも最近は、子どもたちのおいしいという言葉が増えたと思う。

「肉じゃがも、おいしいよ!」

と真白が口いっぱいに肉じゃがを入れたまま話しをした。

「真白、まだ肉じゃがのおかわりあるぞ。」

「父さん…俺、明日は会社早く終わるから、帰って来たら俺が夕食を作るよ。」と呟くように言った。

「そうか碧生、父さん、明日は仕事の帰りが遅くなるから頼んだぞ。」

「兄ちゃんのご飯は絶対お肉!ガッツリ系だから嬉しい!」と真白がはしゃいでいる。

「明日は大学に行く時間が遅いから、朝食作りとキッチンの洗い物と洗濯はしておくからね。」

「それと碧生、真白と一緒にスーパーへ一週間分の食料の買い物もお願いね。」と茜音が言った。

「ういー。姉ちゃん、食材のリストをちょうだい。」

「わかった。あとで書いてお金と一緒に渡すから少し待っていて。」

「父さん、明日は兄ちゃんと待ち合わせをして買い物に行って、帰って来てからお風呂場の掃除をするよー。」

「それと父さん、高校で進路についての三者面談があるけど…。来てくれるの?」と真白が不安そうに聞いてきた。

「真白、大丈夫だよ。父さん時間を作って必ず行くから。」

一時期、家事の仕方や子どもたちの様子がわからず、家の中が散らかり放題、荒れ放題になった。このままではいけないと思い、子どもたちと話し合いをして、子どもたちの意見を聞いてから、みんなで協力して家事の分担をするようになった。そのための作戦会議…それぞれの予定を確認するのが決まりとなった。自画自賛だが子どもたちは素直に育ってくれた。母親がいなくなったさみしさを、兄妹たちで支えあい埋めるかのように。もしかしたら父親に気を遣い寂しいと言わないだけだろうか。

それなのに未だ僕は心に空いた穴が埋まらないでいる。

「あっ。」

箸を置いて深呼吸をした。

「父さん、週末は友人に会いに行くから。」と子どもたちに伝えた。

「よお!元気だったか?」

夫婦共通の友人から連絡をもらい久しぶりに会いにいった。

「久しぶりだな。」

友人の顔を見たら、急に妻を思い出し目頭が熱くなる。

それを察して友人が
「三人のこどもたちは元気にしているか?」と質問をしてきた。

「ああ元気だよ。」

「どうした?」

友人が怪訝そうな顔をしてこちらを見ている。

「もうこの苦しみから逃れたいのに、悲しみから逃れたいのに。こんなに長い時間、味あわなくてはいけないのか。この気持ちが、複雑な想いが永遠に続くかと思うと、漠然とした不安が果てしなく続くかのように感じる。感情を言葉で表現できないもどかしさ。僕は一体何を悲しんでいるのか?何を苦しんでいるのか?本当は幻なのか?答えを探し当てられずに途方に暮れる。」

感情が口をついて止まらない。話し終えてどうしていいかわからず目をそらした。

「申し訳ない。」

現在の気持ちを吐露した時、友人がゆっくり穏やかに言った。

「今のお前には時間が必要だな。」

「時が良くも悪くも全てを風化させるんだ。お前が立ち止まっても周囲は何事もなく動いている。でもお前自身も少しずつ、見えない変化の積み重ねが必ずあるんだ。振り返った時に、今まで気がつかなかっただけで、受けた悲しみや苦しみから少しずつ心の緊張がほぐれていることに気がつくと思う。きっと時だけが解決させてくれることだから。」

「そうか。」 

本当は消えたい。この世界から、人の記憶から、自分の存在を消し去りたい。そしたらみんなこの世界での自分の不在を悲しまなくていいのに。

全てはきれいごとだ。でも本当にきれいごと?今の僕に理解できるのは、友人の僕に対しての想いそして気遣い。それを信じるか信じないかは僕の心ひとつ。でも、こうしてわざわざ僕に会いに来ているじゃないか。なぜ気持ちを受け入れられない?なぜ拒否しようとする?孤立しようとする?

自己嫌悪が襲い掛かる。今は無理だ。そして再び自問自答する。友人を信じたい。友人の言葉を信じたい。僕は強くはない。

「俺はお前の気が済むまで話を聞くよ。」と言い微笑んでいた。

「ありがとう。」

色彩を失った日常。漆黒の闇。でも今言える精いっぱいの気持ちを伝えた。僕の心は、どうやら友人に見透かされている。そんな気がした。

「それと、真白の事だけど。」

「おお!真白ちゃん元気か?真白ちゃん、うちの坊主と同じ年だったよな。」

「今度真白の高校で、進路についての三者面談があるんだ。僕が行くけど、どうも勝手がわからなくて。」

「そうだな。うちのやつに聞いてみて連絡するよ。そうだ!今度子どもたちを連れて家に遊びに来たらいい。」

「子どもたちに聞いて、ぜひ家にいかせてもらうよ。」

友人と多くの話しができて気持ちが穏やかになった。ホッとした。

「そろそろ、僕は帰るよ。」

「そうだな。もうそんな時間か?また連絡するよ。」

また友人と話しをしたい。話しを聞いてほしい。子どもたちを想う。ポケットから携帯を取り出し電話をかけた。電話に出るだろうか。

「碧生か?父さんだけど。家にみんな帰ってきているか?晩飯まだなら、これからみんなと一緒に外食しないか?」

「父さん、みんな家にいるよ。今聞いてみるからちょっと待ってて。」

「外食するなら、父さんはなんでもいいから、三人で食べるものを決めなさい。」

電話口で子どもたちの声が聞こえてきた。

「ラーメン!ラーメン!ラーメン!」

「真白!おかしいでしょ?こういう時は高くておいしいもの!私、ケーキも食べたい!」

茜音と真白の会話に思わず笑ってしまった。

「父さん、三人で食べるものを決めておくから。どこで待ち合わせするの?」

「碧生、ありがとう。一時間後に駅の南口にあるコンビニの前で。」

「うん。わかった。また後で。」

何を食べたいのだろう?三人で何を選ぶのか?楽しみになってきた。

子どもたちに今日の話しをしよう。きちんと本音で話そう。そう思いながら急いで待ち合わせ場所に向かった。

「父さーん!」

駅の改札を出て、待ち合わせ場所のコンビニが見えてきたところで、子どもたちが大きく手を振っている姿が見えた。子どもたちと合流して希望を聞いたら、焼肉が食べたいと言った。

「父さん、帰りにケーキ買ってね。」茜音が言った。

「ああ。でもそんな食べられるのか?」

「大丈夫。ケーキは別腹だよー」

茜音と真白が笑っている。

焼肉店は少し混雑して店内はざわついていたが、子どもたちは楽しそうに肉を焼いている。それにしてもたくさん食べるなぁ。その姿や会話で久しぶりに心の底から笑うことができた。不条理なことを受け入れられず拒否し、ないものに幸せを求め、目の前にある幸せを見失いかけていた。

「父さん、おいしかった。」

良かった。喜んでもらえて良かった。何だか嬉しい。
 そのあと、ケーキを買いに行き自宅に帰った。自宅の玄関にある郵便受けを開けてみると

『○○写真展開催のお知らせ』

というハガキが届いていた。妻と2人で行った写真展、心が締め付けられた。

「もう区切りをつけないと。」

少し考えたが、必ず写真展に行こうと決心した。

写真展の会場に到着してあたりを見回した。平日のためか人もまばらでエントランスに向かう人も数えるほどだった。ほんの少し勇気を出して中に入った。エントランスは広く足音だけが響いている。無機質な壁には多くの写真が飾られていた。真っ直ぐ奥に進んでいくとひときわ目を引く大きな夕日の写真が飾られていた。よく見るとそれを眺めている人影が写真の一部のようにたたずんでいる。

「ん?」と思いそっと近づいてみた。

微動だにせずに、ただ写真を見つめる女性の憂いが夕日に溶け込んでいるかのようだった。女性の心は今どこにあるのだろうか?そう考えた。

「あの、素敵な写真ですね。」と小さく声をかけた。

突然声をかけられて戸惑っているのだろうか?そうだとしたら申し訳ないなと思った。うつむく女性に穏やかに話しかけた。かすかに見えるその表情に、妻の面影を見た。頭の中をたくさんの想いがよぎる。

先日、子どもたちと行った焼肉店で言われた言葉を思い出した。

「父さん。もっと笑って欲しい。」と碧生が言った。

「ごめんな。父さん、母さんを思い出すと辛くなるんだ。」

子どもたちに話して良いのが迷ったが正直に今の気持ちを話した。
「俺たちも、突然母さんがいなくなって本当に辛い。でも父さんが今も辛そうな顔をしていることが、俺たちはもっと辛い。」

目の前にいる女性は何を思い何に憂いているのか?何を悩んでいるは?僕にはわからない。少し話をしてお互い名前を聞かずに、好きな色を呼び名にした。女性は、緋色(ひいろ)僕は、漆黒(しっこく)と決めた。本名を名乗ることで生じる、相手に対する執着を発生させたくなかった。写真を一緒に観てまわることで緋色の笑顔が少しずつ見えてきた。ただ僕の選んだ一番好きな写真の前に来た時に緋色さんが泣き出した。今の僕には何のアドバイスもできない。

でも話を聞くことでそして気持ちを吐き出すことで、緋色自身が持っている答えにたどり着いてほしい。そう心より願った。それまでは話を聞こう。友人が僕にそうしてくれたように。

「緋色さん。これからも生きて行くうえで納得が出来ないことも多くあるかと思います。でもどんなに辛くても悲しくても、不条理な事を受け入れて生きてくんです。」

緋色が少し考えて、きちんと僕を見つめながらうなずいた。
最後に初めに観た夕日の写真の前に戻って来た。後ろからそっと緋色を抱きしめて言った。

「またお会いしましょう。今度はお互い笑顔で。」

「ええ、笑顔で。」と言いながら僕に笑顔を向けた。

もう緋色に会うことはない。妻も、もういないんだ、思い出を残して逝ってしまった。今いる大切な人のいる場所へ戻っていこう。

帰りを待つ人達のもとへ。