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第3項 "神道に宿る自然合理主義” 3/4

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。前回は神道を宗教や国体としてではなく、”Homo sapiensの生存戦略”として紐解きました。それは人類進化の軌跡であり、自然界から社会性を構築した結果生まれたCultureでした。噂話から共同幻想を生み出し社会性が高まるほど、Nature(自然)とCulture(文化)が解離してしまいますが、それでは自然の恩恵を受けられず、人類が滅んでしまう為、二点を繋ぎ止める”ムスビ”の文化だと考察しました。

 ここまでの内容は主に、神道へのバイアスを取り除き、前述の本質を理解する作業でしたが、今回は”基礎概念”を分析し神道を形成するフレームに触れてみたいと思います。

「神道のReverse engineering」3/4
第1項 "神道の通奏低音”
第2項 ”Homo sapiensの生存戦略”
第3項 "神道に宿る自然合理主義”
第4項 ”侘寂の先にある日本発酵論”

[Ⅲ.基礎概念]

 これまでの項目で神道について本質的な概念を定義し、イメージの誤解は解かれたでしょう。しかしこれらは神道を取り巻く骨格の一部に過ぎず、Cultureとして理解するには更なる”概念理解”が必要となります。その中でも”カミの概念” "ムスビの概念” ”自然合理主義”は第一項の通奏低音に次ぐ”基礎概念”となります。また、次項で取り上げる ”侘寂(ワビサビ)” "穢れ(ケガレ)”は、連綿と続く歴史の中で神道の概念を具体化した”派生概念”と言えるものです。最後にこれら基礎概念と派生概念について理解することで、本稿の目的である”神道の根幹概念解釈”を終えることが出来るでしょう。

・カミの概念

 神道を現代社会の概念で語ろうとした場合、幾分かのミスリードが発生します。その一つが”神の定義”です。神道における”カミ”と呼称される概念は、他の文化における、”God”や”シン”とは異なり特に、西洋諸国を基準値とした場合の神は、”God”(多神教の英訳は”gods”)と訳され、"天皇や天照大御神が絶対神Godなのでは"と誤解を招いています。
 第一項の”神道の通奏低音”でも触れましたが、西洋に於ける神=Godの概念は、”人間を超越した不可侵の存在”を表しますが、神道における”カミ”は、太陽や大地又は農業や家屋など、身近な事柄を”擬人化”した敬称であり、人と相対化して”人間を超越する”という訳でもなく、”不可侵な存在”という訳でもありません。飽くまでも自然は自然として偉大である、ということに過ぎません。とりわけ擬人化とはある種、人間との同格化とも言えるもので、Godとは全く別種の思想でしょう。

 つまり神道における"カミ"とは、人類の"Sustainableな生命活動"を支える対象として崇敬したものを"カミ"としています。それは自他共に人智を越える必要も、絶対的な存在になる必要も求めず、あるがままの自身と自然が"共存する(需給、調和)"為の、擬人化であり名詞でしかありません。

・ムスビ(結び、産霊)の概念

 基本的に神道のカミは自然の擬人化です。それは、世界各地で発生した自然崇拝’’Animism’と類似の思想と言えるでしょう。しかし、他方におけるAnimismと少し違う概念が存在します。それが”ムスビ”です。
 ”ムスビ思想”は、宗教的側面だけではなく、出産や交尾など生物学的な”生命活動”を象徴するものとしても扱われます。数日間に亘り二匹の蛇が絡み合う交尾は”生命の象徴”として注連縄など、縄文化として”ムスビ(交尾)思想”を体現されます。
 また前項でも触れましたが、神道の通奏低音である”Sustainableな生命活動”を実現する為には、Natureだけを崇拝しても実現不可能でありまた、Natureを蔑ろにCultureの発展だけを目指す事でも実現不可能です。人類が生きる世界構造は二元論ではなくグラデェーション構造で、高度な文明社会から徐々に豊かな自然界へと彩られています。その繋ぎ目である”Nature(カミ)とCulture(人)の狭間”が”ムスビ(Tie)”であり、相互に溶け合う境界に神道が存在するのです。それは生命の象徴である縄を用いNatureとCultureを結ぶイメージでしょうか。
 これらは神道の宗教的な側面である”生贄思想”にも見られ、神道においては”人の罪を許すた為に命を捧げる”、という厳罰思想ではなく”カミに嫁ぎ親類になる事で乖離を抑制する”とする、融和・調和思想であり、NatureとCultureのムスビを深める為の行為です。カミを擬人化し同族の延長線だと考え、絶対的な神格化を行わない神道ならではの思想でしょう。このムスビ思想は、縄文人や神道の概念だけに留まらず、アイヌ、Native Americanなど縄文人系の系譜で見受けられ、Homo sapiensが描いた共同幻想の根幹を担う思想と、言えるのではないでしょうか。

・自然合理主義

 端的な意味としては、”自然を基準とし合理的な判断を行う”事で”合理”は文字通りですがこの場合の”自然”とは自然界における”原理原則”を意味し、言い換えるとポジションや感情論に囚われず”原理原則に従い合理的に判断を行う”という意味合いです。儒学者の荀子が提唱した”是々非々”と良く似た概念です。自然合理主義では、是を是とし非を非とし更にそこへ原理原則が付随させます。
 例えばカミの定義においても、絶対的な不可侵な存在とせず、生命活動に貢献する対象全てをカミとしました。しかし、必ずしも自然を盲従的に崇拝するのではなく、八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)のような自然災害(水害)などが発生した場合は、八重垣を設ける事により文明として合理的に対処します。またムスビの項目で、”世界はグラデーション構造であり、二元論ではない”、そして”その狭間にある境界線に神道が存在する”と指摘しました。この価値観にも自然合理主義は内包されており、人類は脳機能の構造上、善悪や男女のように二元論を用いて判断をしますが、現実世界では常に多様性が存在し、そこから生物学や市場原理のような原理原則を用いて判断する事が求められます。神道は、この事を理解しているからこそ、NatureとCultureを対立軸で捉えるのではなく、”生命活動”を主題としつつ調和(ムスビ)が重んじられるのです。神秘的にカミを崇める為ではなく、ただ人間が生きる為にです。
 この”自然合理主義”は私の造語ではありますが、自然と合理を組み合わせる事は、神道概念を包括的に捉える上で重要な思想であり、他のAnimismよりSpiritual性が低く感じるファクターと言えるでしょう。


 本日はここまでです。前回で取り上げたHomo sapiensの生存戦略とは本文の通り、”Sustainableな生命活動”を続ける為に、ニュートラルな価値観である”自然合理主義”を用いることでした。宗教的概念以上に、生きるために自然と繋がっていたのです。次回はこの生存戦略の元に生まれた[派生概念]について第4項 ”侘寂の先にある日本発酵論”を軸に考察を行います。


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