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歴史の断層と交流:年末恒例「ベートーベンの第九」


はじめに

 コロナ禍に襲われて、2020年から三年中断した「一万人の第九」が12月3日、四年ぶりに大阪城ホールで開催されました。私は2018、19年の二回参加して以来の、三回目の参加ですが、やっと開催されたということで、今までになく盛り上がっていました。 今回は、1983年の最初の開催以来初めて、全都道府県からの参加があったそうです。
(タイトル写真は、12月2日本番前日リハーサル開場4時45分の15分前。全国から参加者が続々と集合するも一歩も動かず)

 そこで、第九に関する歴史的、文化的な背景を、個人的経験、関心を中心に書いてみます。

 「ベートーベンの交響曲第九番合唱付き」の演奏が日本で年末恒例になった歴史は、少しは聞きかじっていた気がするのですが、詳細な経緯は、今年、この "note" を書き始めた2023年に、関連情報を探索して初めて知りました。

 この「サントリー:一万人の第九」は、1983年に始まりました。
 たしか、最初に私が参加した2018年に、日本で最初に第九が演奏された徳島県鳴門市からの参加者が(20人ほどかな)紹介されました。ここで初めて「あー、そーだったんだ」と、自分が今まで知らなかった、知ろうとしなかった歴史があるんだ、と実感しました。2018年は、鳴門市坂東俘虜収容所において日本で初めてベートーベンの第九が演奏されてから100周年の年でした。

バルトの楽園


 この歴史について、今年5月に、2006年の映画「バルトの楽園(がくえん)」のテレビ放映があり、第九が初めて演奏された俘虜収容所の具体的な状況が描かれていました。

 第一次世界大戦で、中国、青島(チンタオ)から連れてこられた俘虜が、中国四国地方などの寺社の領地(山田探索の記事で書いた「別所」ですね。中世、鎌倉時代の、東北から連れてこられた「俘囚」収容所の近代版?)など、あちこちに収容されたのですが、次々と送られてくる俘虜全員を収容しきれません。あふれた俘虜を整理統合して、鳴門市の坂東という所に収容したのです。
 日独戦で俘虜となったドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国の将兵約1000名が、1917年4月から1920年3月まで収容されました。

 その収容所では、俘虜たちは大変自由に行動できるよう配慮され、多数の運動施設、農園、酪農場が設けられ、俘虜たちのかつての職業、技能に応じて、ウィスキー、パン、野菜などの製造販売が許され、近辺の住民にも販売されたとのこと。その中で、オーケストラの楽団が結成されたのです。バイオリンやドラムなどの製作ができる楽器職人たちもいました。
 何故このように自由な行動が許されたかについては、俘虜収容所長であった松江豊寿が、賊軍としての悲哀を味わった会津藩士の子弟に生まれたことが大きく影響している、とされています。
 
 しかし、この "note" で書いている「脇見歩き」随想の流れが導いた、時代背景の理解からすると、単に、俘虜収容所長の生い立ちから形成された人格だけで済まされることではないと思います。

第二次世界大戦と青島

 5月に「バルトの楽園」を見たあと、9月15日の新聞の地方面に「占領下の青島 途切れぬ調べ」という神戸大の博士課程の中国人の学生が研究している内容についての紹介がありました。音楽が盛んな文化都市として知られる青島について、第一次世界大戦中に俘虜収容所に収容された人々の音楽活動については全く記載されていませんでしたが、次のような内容です。
 日中戦争勃発後の1938年に青島を占領した日本は、「文化は兵器なり」という言葉を掲げて、文化による植民を試みました。軍が目をつけたのが、青島の人々に愛されていた音楽。クラッシックや中国伝統音楽に加え日本の音楽も演目に並び、中国と日本人がともに演奏したと言います。 

それでは、坂東俘虜収容所の背景です。
私の問題意識は、ドイツ人の俘虜がなぜこのような好待遇を受けたのか、という歴史的な背景と、対独戦を行った第一次世界大戦への参戦の経緯と日本国内の状況です。

ドイツ帝国の成立と植民地


 18世紀後半にプロイセンが、周辺国家をまとめてドイツ統一に成功し、ドイツ帝国が成立したのは1871年、明治4年のことでした。その前の明治二年に日本では、医学制度改革によりドイツ医学を採用しています。

 そもそも、ドイツは他の西欧諸国に比べて統一国家の建設が遅れたため、本格的な海外植民地の建設も遅れていました。そして、ヴィルムヘルム2世のもと積極的な海外進出を行いました。中国に対しては、1895年に天津と漢口を租界地とし、膠州湾(青島:チンタオ)を99年間の租借地とします。
 膠州湾租借地は、ドイツの軍事的な艦隊基地としての役割を担っているわけですが、模範的な植民地作りという任務にあたり、重大な役割を果たします。街路樹の整備や禿山だった周囲の山々への植林、上下水道、病院や小学校、ドイツと清の共同出資による徳華大学などがこの地に実現しました。小さな港町だった膠州は、緑が多く商業・法制度の整った一大商港・青島へと発展を遂げます。

 日本は、対外的な境遇が似ている建国間もないドイツをお手本にして、憲法を制定し、鉄道、自動車、建築など、いろいろな技術や文化を取り入れました。なので、ドイツ人には明治の最初から敬意を払っており、特別な待遇を与えていたのではないでしょうか。

 例えば、私の記事「ごまめのごたく:山田の周辺(2)」で述べていますが、明治13年(1880)に「プロイセン皇孫遊猟事件」が吹田市山田の南にある釈迦が池で起こりました。当時、神戸に滞在していたドイツのプロイセン王族のハインリッヒ(ヴィルヘルム2世の弟)が、お忍びで釈迦が池までやってきてカモ猟をしていたのですが、これを阻止しようとした村人との間で起こったもめ事が、外交問題にまで発展した事件です。
 皇孫という地位もあるでしょうが、ドイツ人は、居留地の神戸を離れて自由に国内各地に足を延ばせたようです。

 

日清・日露戦争と日本社会


 日清戦争(1894~95/明治27~28)の勝利によって日本は、中国からの朝鮮の独立の承認、遼東半島、台湾の割譲などを取り付けます
 
 このあたりの日本国内の状況について、最近見つけた、次の本からつまみ食いして、本文の趣旨を損なわない程度に要約して引用します。
「ぼんやりとした不安の近代日本―大東亜戦争の本当の理由―」 浜崎洋介 ビジネス社 2022

― 日清戦争と資本主義恐慌


 >明治維新後、初めて経験した大規模な近代戦争である日清戦争での勝利は、・・・日本の近代化路線が間違っていなかったことを証明することになりました。またその後に、ロシア・ドイツ・フランスからの「三国干渉」によって遼東半島の返還を要求されるに及んでは「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん:将来の成功を期して、長い間、苦労、窮乏に耐えること)との合言葉と共に、軍備拡張とナショナリズムの気運が一気に盛り上がっていくことになります。

 そして、さらに近代日本は、日清戦争の勝利によって「産業革命」をも軌道に乗せることに成功します。清に対する巨額の賠償金を手にした日本は、それを元手に繊維産業や重工業への大規模投資と、金本位制(グローバルスタンダード)の採用へと踏み出し・・・それがまた日本に空前の好景気とともに、本格的な「資本主義経済」をもたらすことになるのでした。・・・

 しかし、商品経済の農村への浸透は自給自足的な農村生活を突き崩し、その結果として農民は、農産物(桑や生糸)の商品化に成功した大地主と、そこに吸収されていった小作農家とに分解されていくことになりますが、さらにそこで、都会に出稼ぎに出された小作農家の次男・三男・娘たちが直面していったのが、すでに資本主義化された都市の貧困問題だったのです。

 このころ、宗教道徳問題が世に喧しくなり、学生たちは宗教、倫理問題に没頭していたそうです。

― 日露戦争の勝利と「時代閉塞」

 西欧列強の一画を成すロシアに勝った日本は、これまでの劣等感を拭い去り、いよいよ世界の「一等国」の仲間入りを果たしたという自意識と共に、「大日本」への道を歩み始めることになります。
 しかし、明治38年、(ポーツマス条約により)ロシアからの賠償金が得られなかったことに端を発する大衆暴動=日比谷焼き討ち事件が起こり、その中途半端な勝利に対する不満、失望が渦巻く中で、政府のコントロールを超えた「大衆」が現れ始めます。
 そして、明治維新以来保たれてきた「西欧列強に対する近代化」という国家目標の喪失、つまり30年に渡って国民を束ねてきた強力な国家的価値の後退に伴う国民精神の弛緩に対するぼんやりした不安が広がります。
 ロシアに対する勝利のためなら、「臥薪嘗胆」を合言葉に、どんな重税にも耐えてきた「国民」が、しかし、その『坂の上の雲』が、文字通りの「雲」でしかなかったことに気が付きはじめた瞬間、反国家的な「暴徒」へと裏返ってしまうのだという現実は、そのまま、国家目標を見失ってしまった「国民」が容易に「官能耽溺」へも流されていってしまうのだという現実と地続きのものでした。

 このあたりの国内の政治、社会状況は具体的にはどうだったのでしょうか。次の本を参考にして書いてみます。

「大正時代―現代を読み解く大正の事件簿」 長沢道雄 光人社 2005

 日露戦争の勝利はさしあたり外圧の憂いを消滅させましたが、つぎの「帝国国防方針」の重点をどこに置くかが問題になりました。
 第二次桂内閣のとき、海軍は、米国が明治40年以降フィリピン、ハワイに基地を設け、太平洋での対日優位を確保しようと動いていたこともあり、米国を相手とする軍備拡充を計画して、多額の予算を要求しました。
 これに対して陸軍は、ロシアが必ず復讐戦を試みるであろうから主敵はロシアであり、敵が攻撃してくるのを待つのではなく、積極攻勢に出るべきである、としてこれまた多額の予算を要求しました。
 しかし、日露戦争後の日本経済は、慢性的な不況に苦しんでおり、財政当局と陸海軍との折衝は一筋縄ではいきません。明治44年8月に発足した第二次西園寺内閣は、難しい舵取りを強いられました

時代は大正へ

こうした騒然とした状況の中、1912年7月30日、明治天皇が崩御し、大正時代に入ります。

 こうした時代の移り変わりの中、陸、海軍とも予算の減額に強く反発し続け、西園寺内閣は総辞職に追い込まれます。大正元年12月5日のことです。そして、その直後、大正政変とのちに呼ばれる次期内閣打倒運動がまだ首班がだれか決まらないうちから始まります。そして、ごたごたの末に、12月17日に第三次桂内閣となります。

憲政擁護の叫び四方より

 西園寺内閣を総辞職に追い込んだ官僚、藩閥、陸軍の横暴跳梁は全く目にあまる。もはや彼らとの妥協は許されるべきではない――政党が怒り、ジャーナリストと言論家が怒り、そして産業資本家の一部も同調します。
 こうした憲政擁護の動きが全国に広まります。
 そして大正2年2月、国会の周辺も憲政擁護、閥族政治打破を叫ぶ民衆に取り囲まれることになります。
 議事堂を囲む群衆の殺気に、警官も落ち着いていられない。逆上して騎馬警官がその中に駆け入り、人々を馬蹄で蹴散らして死者二人を出します。
 群衆の怒りは、「御用新聞」と呼ぶ政府寄りの新聞社へも向けられ、新聞社への放火や投石などにより、多くの負傷者を出します。
 攻撃の手は警察にも向けられ、交番が放火されたり押し倒されたり、抜剣した7,80人の巡査と群衆が白兵戦を演じたりで、一個大隊ほどの兵力が出動します。
 桂内閣は明くる2月11日に総辞職したが、騒動はその日のうちに関西各地に飛び火します。
 2月20日、山本権兵衛内閣発足。藩閥政権の延長とみられていたが、次々と反官僚的な実績を上げます。
 ところが、足元の海軍内部の汚職事件に足元をすくわれ、つまずいてしまいます。シーメンス事件です。

シーメンス事件

 大正3年(1914年)1月23日付の各紙は、ベルリン、ロンドン発の外電で日本高官が収賄した事件を報じた。
 電気製品を商うドイツのジーメンス・シュッケルト社の東京支店従業員でタイプライター打ちのリヒテルが、重要な秘密書類に接する立場にいたことから、日本海軍省高官の不正に絡む書類を盗み出します。
 同社を解雇されてから、大正2年2月、副支店長を恐喝。

 ベルリン地裁で恐喝罪により懲役2年の判決を受けますが、法廷で贈収賄の経緯を陳述して事が発覚、その後、事件は芋づる式に明るみに出ます。
 英国最大の軍需会社ヴィッカース社の代理店である三井物産から、戦艦「金剛」の発注にからんで海軍高官が収賄していたとの、スケールの大きい容疑が浮上します。
 またもや、社会が騒然とした状況になり、海軍の権威が落ちて、艦隊拡張計画に批判の矢が集中します。予算案は不成立に終わり、3月24日、山本権兵衛内閣は総辞職します。
 そして、様々な駆け引きの末に、大隈重信という明治元年に外国事務局判事、同三年に参議となった歴史的大物が、奇跡のように復活します。
 大正3年4月26日第二次大隈重信内閣成立。公家出の公爵や陸軍大将、海軍大将の首相が長く続いたあと、“民衆政治家”大隈の出現に、人気が沸騰します。

 やっと、この ’note' で書こうとした、「第一次世界大戦へ、日本が参戦に至る日本社会の状況」の終着点に近づきました。

天祐としての第一次世界大戦

 国家の緊急の課題として、行き詰っている財政の立て直しと、陸海軍の軍備拡充を整合させなければならない。つまり、財政の膨張を防ぐために軍事費をどう引き締めるかが、今の政権の責任なのです。
 軍備拡張と財政整理、国民の負担軽減の矛盾した課題はたちまち内閣の命取りになりかねない重い荷物ですが、七月末に起きたヨーロッパの動乱がそうした心配を吹き飛ばします。

 大正3年7月28日、オーストリアの対セルビア戦線に始まり、8月12日までに欧州の主要国ほとんどが交戦状態に入ります。
 元老井上馨が狂喜して、「ヨーロッパの大禍乱は大正時代の天祐(てんゆう:天の助け)で、日本は直ちに挙国一致でこの天祐を享受すべきだ」との意見書を山県と大隈首相に送ります。「――このさい、廃減税の議論など中止して財政を強化する。政争は一切やめて国論を統一し、イギリスだけでなく仏露とも強固に団結して、東洋の利権を確立すべきである」
 この機会を積極的に利用しようとの考えは、方法は違うが大隈も加藤高明外相も共通して持っていました。
 日本はとくにドイツへの政治的恨みはないので、参戦への世論が沸騰することはないにしても、ジャーナリズムも欧州戦争に厳正中立を守れと最後まで主張したものはありませんでした。
 8月7日、グリーン英大使は、東洋で英国商船をおびやかしているドイツ巡洋艦、武装商船を撃破してほしいと日本に求めてきました。
 9日、日本政府はグレー英外相に、東アジアのドイツ勢力を、あらゆる手段をもって覆滅すると、参戦を通告します。ところが、日本の意図を見抜き、中国大陸への露骨な進出を恐れたイギリスは、軍事協力は求めたが参戦までは望んでいないと、日本の動きを抑えにかかります。
 しかし時すでに遅し、8月15日、ドイツに最後通牒。東アジアから艦隊を退去させ、山東半島膠州湾のドイツ租借地を中国に返還するため、直ちに日本官憲に引き渡せ。しかし要求は無視され、23日に対独参戦布告します。
 大正日本の対外活動は、対独戦争の形で始まりました。大正のこの戦争は、後の昭和の戦争と違って、軍部ではなく政府がイニシアチブをとり、日本が近代で、武力発動前に正式に宣戦布告した唯一の例でもあります。

 ここまで「大正時代―現代を読み解く大正の事件簿」を参考にしました。

 次に、このあたりのことを、最初に示した「ぼんやりとした不安の近代日本―大東亜戦争の本当の理由―」より

 日清戦争にしろ日露戦争にしろ、明治の戦争には、「思い」(近代化への夢)と「暮らし」(日本の現実)とのギャップが常に付き纏っていました。が、第一次世界大戦には、そのような緊張感はありません。はじめから海の向こうの戦争でしかなかった第一次世界大戦において、日本は漁夫の利を得る立場にあり、まさしくそのことが、近代日本人に・・・・・大戦後における「日本の近代化の達成」というふやけた夢を空想させることになるのです。
 まず日本は――特に外相の加藤高明と元老の井上肇を中心として、――第一次世界大戦を東アジアにおける勢力拡大とその安定化を図る「天祐」として受け取ります。日英同盟を理由として(日英同盟に参戦の義務はなかったにもかかわらず)ドイツに宣戦布告をした日本は、まずドイツの租借地青島とドイツ領南洋諸島の一部を占領し、さらに、当時できたばかりの中華民国・袁世凱政権に対して「二十一か条の要求」を突き付け、かつては自らが苦しんだ「帝国主義」的な態度を、今度は中国に対して示し始めることになります。

まとめ

 第一次世界大戦を天祐として対独参戦した日本は、山東半島膠州湾のドイツ租借地を中国に返還するため、として膠州湾を占領しますが、もとよりドイツを手本として近代化し、特に軍事的な恨みのないドイツの模範的植民地政策を引き継ぎ、ドイツの俘虜から文化的な伝統を引き継ごうという、文化戦略的な態度で俘虜収容所を運営することになった。

おまけ―大正時代前期年表

 大正初期から第一次世界大戦終戦(大正8年)までの、国際政治的な状況の流れを、日本の文化、市民社会の状況と合わせて、年表にしておきます。(「大正ロマン手帖」河出書房新社2009 の略年表を参考にさせてもらいました)

1912年[明治45ー大正元年]
 7月:明治天皇崩御
 9月:日清蓄音機設立、「松竹女優養成所」開設
 12月:「日活」設立
    西園寺内閣から第三次桂内閣へ
    第一次護憲運動

1913年[大正2]
 1月:平塚らいてうが「中央公論」に「新しい女」を発表
 2月:桂内閣総辞職(大正政変)
 8月:東北帝国大学に女子学生が入学、初の帝大女子学生
 9月:銀座千疋屋、日本初のフルーツパラーを開設、「宝塚唱歌隊」誕生

1914年[大正3]
 1月:シーメンス事件
 3月:「東京大正博覧会」開幕
 7月:第一次世界大戦始まる
 8月:対独宣戦布告
 10月:東京・日本橋の三越呉服店、新装開店
    ドイツ領南洋諸島を占領
 11月:膠州湾のドイツ根拠地青島を奪取 
 12月:東京駅開業、「カチューシャの唄」大ヒット、マンドリン流行

1915年[大正4]
 4月:「新少女」創刊
 5月:中国に21か条の要求を出す、中国民衆の対日感情悪化
 9月:日本蓄音機協会「ニッポノフォン」、レコードを両面盤にする
 11月:東京株式市場大暴落、未曽有大戦景気となる、カフェ女給の白エプロン姿始まる、「セノオ楽譜」の刊行が始まる、「銀ブラ」が流行語になる

1916年[大正5]
 1月:大正デモクラシー運動が盛んになる、「婦人公論」創刊、アメリカ  製活動写真全盛
 9月:良妻賢母主義を目的とする大日本婦人会結成
 12月:株式相場大暴落、東京・大阪株式取引所立会停止

1917年[大正6]
 2月:浅草オペラ始まる
 3月:「主婦の友」創刊
 9月:暴利取締令が公布され、大戦景気で投機の対象となる米穀、鉄、石炭、薬品等の買い占め、売り惜しみを戒告、処罰

1918年[大正7]
 8月:シベリア出兵を宣言、富山で米騒動。全国に広がる
 9月:原敬の政党内閣が始まる

1919年[大正8]
 1月:「宝塚少女歌劇団」を組織
 6月:ベルサイユ条約に調印、国際労働機関にも加盟
 7月:カルピス発売
 10月:東京・東京女学校、日本で初めての洋式制服を採用
 11月:第一次世界大戦終結
 普通選挙運動広まる
 社会主義運動がさかんとなる