私にとってのカメラと写真
カメラを持って出かけるのが当たり前になった。
こういうものは、買った当初がもっとも熱が高く、だんだんと飽きてくるものだと思っていたけど、むしろ私は逆だった。少しずつ少しずつ、カメラにはまっていったのである。
最近では、撮った写真をnoteの記事にして、それをさらにマガジンにまとめているのだが、そのマガジンも38本になった。追加のペース、枚数も、どんどん増えている。
それなりに撮っているので、昔よりは上達していると信じたい。
もしかしたら、SNSには厳選したとっておきの写真だけをあげていった方が、「この人すごい!」となるのかもしれないが、私には自分のベストショットを選ぶほどの目利きができないので、いいと思ったものを全てあげている。その分、いいと思える写真をたくさん撮れるように、強くアンテナは張っている。
私にとって幸いだったのが、妻もカメラを持っていたことだ。共通の趣味を持っていることで、家族間の幸福度が爆上がりする。しかもカメラが趣味となると、どこへ行っても楽しめる。
また、カメラのいいところは各々でも楽しめるし、お互いにシェアもできる。カメラ好きな人は、絶対に、カメラ好きな人と結婚した方がいい。(そうでもないと一箇所に數十分立ち止まってシャッターチャンスを待つ感覚は絶対に理解されない。)
若干惚気のようになってしまったのでカメラの話に戻したい。
これだけ写真を撮っていると、なぜこんなにカメラのことばかり考えているのか、と考えることがある。
私にとってカメラとは趣味でしかないので、プロのカメラマンとして活動している人とは若干モチベーションの毛色は違うかもしれない。でもそう遠くはないと思っていて、シンプルにその場で感じたものを記録するのが好きなのと、それを誰かに共有したいと思うのだ。
カメラが写真に収めるのは自分の目で見て、感じた景色である。それ以上のものは基本的には保存できない。(ドローンなどの遠隔操作できる機器はまたカメラとは異質なので、今回は例外とする。)
また、日常には多くの幸せで溢れている。そんな大それたものでなくとも、疲れた日のビールや、休日に飲むコーヒーや、雨上がりの晴れた空など、ちょっとした幸福を感じる瞬間は誰にでもある。
ただ一方で、別の人間が全く同じ幸福を体験するのは不可能に近い。完全に同じ経験をすることはできないし、同じタイミングでその場にいる可能性もかなり低い。だから同じ幸福を、同じものとして体験することはできないのだ。
だから少しでも、良いものをシェアするために、写真におさめてSNSにもアップしている。そして私自身も、多くの人の写真を見て、少しだけ幸せな気分になる。
もちろん、その場に居合わせた当人よりも幸せを感じることはできない。でも少しは、同じ感覚を得ることができると思うから、私はできるだけたくさんの写真をSNSにあげている。
綺麗事かもしれないけれど、いいものを「良い」と言ったり、シェアすることで、世の中が少しでも「いい感じ」になるのであればそれでいいと思う。
その手段として私はこれからもカメラで写真を撮ると思うし、ぶっちゃけ今の気持ちなんて明日なんて変わっているかもしれない。だけどたまには言葉にしてみようと思って、考えながら文字に起こしている。
まあ一度の人生だし、楽しくいこうよ。そんなことを思う日曜日の夕方。外はなんだか肌寒いので、ここらで家に帰るとする。
以上
小木曽
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