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委員長、トンボを握ってアッパースイング

完全に失念した。

「#やさしさにふれて」というnote上でのコンテストお題を意識していたネタを投稿しようとしたのに。しょうがないので、ここで書くことで仮初の浄化としよう。

上のお題はざっくりいえば「やさしくした・されたこと」がテーマであった。最近の自分は他人への感謝をするアルゴリズムが構築されてきているようで、この手の話題は引き出しの中にあるようである。

本記事は自分が子役だった時に仲間から感じた優しさについて触れたい。

小5:学級委員長になりたい!

自分は小5からEテレ『天才てれびくんMAX』にてれび戦士として出演することとなった。はじめてのスタジオ撮影は新人として戦士に加入した自分たちの自己紹介企画。自分の番が回ってきた。モニター画面に字幕スーパーが映る。

「僕は、学級委員長になりたい! by千葉一磨」

どういうこと〜?とTIMさんに振られて答える。自分は学校のクラスの委員長になりたくて何度も手を挙げて立候補してきた。なのに、対立候補が必ず現れて多数決で負けてきたんだ、と。学級委員長になんでなりたいの?と、続けざまに聞かれ、「だって、エラくなった気分になるじゃないですか。人をコントロールしたいんです。」と答えたら、撮影初日で共演者からアブねーやつレッテルを貼られた。レッド吉田さんにも「コイツは危険ですよ」なんてイジられた。

思い返せば、自分には人望がなく、小学校ではどちらかというと男子の友達は多いけど女子に嫌われるタイプ。クラスは女子が過半数を占めているので勝ち目はない。それどころか、委員長になった先が知れているとも思う。とにかく、当時は自分が仲良くしている友人以外へのリスペクトが足りなさすぎた。人として終わっているレベル。小5のクラス(銀杏組といいます)でも同じことだろう。

と思っていたが、ここで転機が訪れる。1学期目は委員長になれなかったが、天てれを観てくれたクラスメイトたちが、「千葉が学級委員長になりたいらしいんで(テレビ使って色々言ってたんで)」と先生や仲間内で話していたのか、2学期目の係員決めの時に学級委員長に立候補したところ、対立候補は現れなかったのだ。そのまま、学級委員長にスッとなった。

仲間のおかげだ、と薄々感じていたものの「俺のチカラだ!」と、そう表面は装った。テレビ的にもネタとして面白かったらしく天てれのコーナーで「委員長になったゾ!」と取り上げていただいた。改めて言う、すべては仲間のおかげだ。

学級委員になったものの、収録で忙しかったのでほとんど全ての業務を相方に預けてしまったのは、すいやせん、というほかない。相手が誰だったかも今思い出せないことが何より申し訳ない。でも、ありがとう。

中1:1年間だけの野球部

小学校からずっと一貫の学校であったため、中学に入ってからも友人との繋がりは継続していた。また、天てれの収録との両立の日々も同じように続く。が、中学に上がることで日常は少しだけ様変わりする。「部活」が登場するのだ。

どんな部活にしようか悩んだ挙句、選んだのは「野球部」。理由は、小学校の時に遊んでいたレベルで興味があったからである。親父にスポーツセンターに連れて言ってもらい、ユニフォームやらグローブやらたくさんの野球道具を買ってもらった。

いよいよ練習。周りには小学校から地元のクラブで野球をしてきた連中や中学から入ってきた同級生もいて完全にアウェー。一応、ホームチームのはずなのに。みんなと手捌きから挨拶から何もかも遅れをとっていた。しかも、顧問の怖いこと怖いこと。一応、小学生の時から知っている先生だったんだが、なぜ学校の先生は部活の顧問となると、脳内に別の化学物質がインストールされたみたいに性格が変わるのだろうか。不思議。

とにもかくにも、自分の未熟さは自分でもよく分かった。しょうがない。野球をしてきた経験値・練習量が違う。だからこそ、球拾いや走り込みなどの野球スキル以外の部分だけでもせめてついて行けるよう必死になった。先輩の荷物を積極的にもったり、雑務もこなした。なぜなら…

こびを売るためである!

いやいや。さっきも言いましたケド、天てれの収録はこの間にもあって、部活休むこともしばしばあったのですよ。それでいて、部活に来たと思ったらムッチャサボるやつってなったら、おしまいでしょうよ。媚び売らな。

邪な気持ちがある自分に対して丁寧に同輩や先輩、コーチたちは指導してくれた。夏合宿の時、他のやつよりも投球フォームが良いとコーチにお褒めいただいた時は、部活に入って良かったと心から思った。

しかし、中1の秋口から状況は変化する。天てれ内部でも部活動の企画があり、自分は漫才コンビを結成してM-1グランプリにチャレンジすることになったのだ。予選の1月前ほどから数ヶ月間、学校に行っては放課後はNHKでネタ練習。それも良い日々だったのだが、やはり野球部をおざなりにしていることは気になっていた。

ちなみに、一度ネタ見せで心が折れたのと野球もやりたい気持ちがあって企画を断念しそうになったタイミングもあった。松竹の稽古場で。しかし、安田団長の熱のこもった電話をいただいて心変わりした。やさしい環境どうしが拮抗し合い、その中央で葛藤するのも幸福の1つだ。

漫才部の活動では色んなチャンスをいただけて松竹、人力舎の若手ライブなどにも参加させていただいた。付け焼き刃だが1回戦は受かった。しかし、結果、あえなく2回戦で敗れた。M-1って、漫才って大変なんだな〜、という面持ちで大阪の無限大から東京に帰ってくる。しばらく何もせず、数日後から野球部を再開する。

練習着に着替えてグラウンドに着く。正直、「今まで何してきてたんだよ。真面目にやる気ねえなら、やめてくんねえかな。」くらいは言われることを覚悟していた。夏も終わって来年に向けて練習に励んでいる頃だろうから。

しかし、後からグラウンドについた同輩や先輩は到着して自分を見つけるや否や、こう言ったのである。

「惜しかったなあ〜、M-1!!行ったと思ったんだけどな〜、よくやった。」

観てくれていた。自分が野球部に不在だった時に行っていたことを。ありがたい仲間たちに恵まれてきたと、心底思う。ここからの練習で恩返しできれば、そう思っていた。

だが、やはり子役業へコミットし続けることで学校の成績が中1から著しく悪くなった。正直、大目に見てくれていなかったら「1」の連続であった。詳細は割愛するが、自分は中学からオールイングリッシュのカリキュラムに移ったので、ただでさえ英語の面でついて行けてないのに、天てれ、そして野球部を並行して続けるのは無謀だ。

そのため、野球部を辞めなければならなくなった。断腸の思いだった。

顧問にこのことを伝えた。顧問は顧問というよりは小学校の時に知っていた時の顔をしていた。感情的すぎない、けれども労いの言葉をかけてくれた。

顧問が野球部のミーティングを開いた。今後の練習スケジュールなどの業務連絡を通達した後、自分の退部についてみんなに報告した。

「千葉が1年間野球部にいてくれたけど、今年度で退部することになった。千葉状況は小学校の時からも知っていたし、本来なら退部の可能性がある生徒をそもそも入部させないつもりでいた。でも、千葉には熱意があったので例外とした。」

淡々と報告が済み、それを聞いた部員も驚きの表情は見せず、ミーティングは終了した。おそらく、自分が野球部を続けるには無理があると気付いていたのだろう。1年間だけ所属した野球部での生活はこれにて終了した。

当時よりも、今、こうして記事を書いている間の方が胸に迫ってくるものがある。

最後に

ついこないだ、役者として乗馬の技術を身につけるべく山梨まで練習に向かった。馬に乗り慣れていきながら、砂利道を走っていく。まだまだ初心者だが、モチベーションが上がってきた。

そして、鞍から降りてホースレッスンに使った砂利の敷料が撒かれたグラウンドを整備する。宿舎からトンボを持ってきた。トンボ...。

ふと、野球部にいた時、グラウンドを1年部員で整備していたのを思い出す。陽が落ちて顔がオレンジ色に反射する。粛々と足元をならしていく。

「そんなに、やらなくても走ったところだけで大丈夫だからね!」

乗馬のインストラクターに止められた。

いいっす。トンボかけるの、好きなんで。




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