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「自由」を受け入れる覚悟

「自由にやりたい」
「好き勝手にやらせてほしい」

そんな想いに駆られることがある。
誰かが「自由にやらせてもらっている」と聞くと、
「えー羨ましいな〜自分もそうしたいなあ」と思わなくもない。

だが、この「自由」、受け入れるには段階を踏む必要がある」ということにここ数年で気がついた。

その段階とは以下のステップになる

自給・・自分で作れるようになること

自信・・自分の能力を信じられるようになること

自立・・自分の力で生きていけること

自由・・自分の思うがままに振る舞えるようになること

例えば、リモートワークで出社しなくても良いということについても、
このステップを踏んでない人が始めてしまうとまともに機能せず、結局サボってしまうケースというのもいくつか見ている。
これはつまり、
「使い方が分からない人に自由を与えてしまっても良い結果は生まれない」
ということのように思う。

正直言えば、自分で思考しないででいる方が圧倒的に楽だ。
誰かが与えてくれたものがあり、それに従っていれば何とかなるという状況があれば、それに乗ってしまいたいという気持ちは十二分にわかる。
さらに言えば、そう言った「レールの上に乗ればゴールに行ける」という状況を生むことが出来たというのは、社会が成熟したという一定の成果とも言えるだろう。
だから、それを否定するつもりはないし、それを選択したいということであればそうすれば良いとも思う。

とは言えど、
「自分自身で考え、捻り出したアウトプットの価値が認められたということに対しての面白さ」
を感じてしまうとやらずにはいられなくなる。

だからこそ「自由にやらせてほしい」と考えるのだが、
それを受け入れるには、
「自由」に至るまでの覚悟が必要になる。

上記したステップをもう少し段階を分けて見ていくと、
まずは「自給」してみること。
これは「自分で作る」ということだけでなく、
「自分で出来ることを増やすこと」という意味も含んでいると思う。
出来ることを増やしていかないと、「自信」は生まれない。

そしてこの
「自給→自信がつく」を繰り返し行って、「自信」を大きくしていく。
やはりアウトプットに自信は重要なのだ。
ドヤ顔はしないが、
心では「自分が作り出したもの」にそれなりの「自信」を持っていないとアウトプットは出来ないし、大きな価値も生まれない。

それがやがて、「もう自分一人で出来る」という「自立」につながり、
さらに自立の先で見せた価値が他者にとって揺るぎない評価になる。

そうなった時点で与えられるもの、それが「自由」ではないかと思う。
ただ、言葉で言うのは簡単だけれども、はっきり言って「かなり難易度が高い」。

為末大さんの言葉を引用するとそれがよくわかる。
「自由を与えると天才は突き抜け、凡人は伸び悩む」
「天才は触らない、秀才は型にはめる」

天才、秀才、凡才が何であるかということの定義はここでは行わないので、
自由は「天才でないと出来ない」とまで言うつもりはないが、
言えることとしては、これまでの通り、
「自由」にいるためには、「自立」のレベルまで達していないと成果に繋がらない
と言えるだろう。

纏めると、
「自由」に至るまでは「自立」に至るまでの覚悟が必要
ということ。
まだ自立まで至れていないと思ったら躊躇なく前のステップに立ち戻る必要がある。それだけ道は険しい。

自立するという困難な道に挑むのだとすると、自由は怖い。
けれど、自由まで至ったら楽しいことは多い。
だから私は可能な限り、自由への道のりにチャレンジしたいなと思う。

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