見出し画像

嫌われる勇気を細かく読んでみるメモ⑤

ベストセラーにもなった「嫌われる勇気」をスッと読んでも頭に入らないので、細かく読んで個人的な感想と浮かんだことを書いてみようと思う。5回目。

孤独を感じるにも、他者を必要とします。 嫌われる勇気 p.70
人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである 嫌われる勇気 p.71
内面の悩みなどというものは存在しません。 嫌われる勇気 p.72

比べる相手がいないと自分のそれが正しいのか、悪いのか、優れているのか、劣っているのかは分からない。そもそもその善悪の概念自体も他者が居て初めて存在する概念なんだと理解できる。
そう思うと色々なものは先祖代々決めてきた様々なことで僕たちの世界はできている。その決めてきたこともすぐに変わる。
戦争をしていた時代は敵を殺せば英雄だったんだ。
平安時代の美人は今の美人と全く違うと聞いたことがある。そう思うと、人の固定概念は長い歴史の中で結構コロコロ変わるものだと思う。
なのになぜ、こんなに固定概念から逃げられないのだろう。自分もそうなのだが、他人の人生を生きていることがある。それは優しさという言い訳ができる。
誰かに非難されるのが怖くて、その人がいいように装う。それは自分の人生ではない。そこから抜けることは大事だろう。他人に人生を委ねている限り、何も選べない。選択権は自分しか持っちゃいけない。

ただ、どうだろう。自分の人生を生きることはいいことだが、社会のルールから逸脱するのは流石に良くないと思う。
誰かを傷つけたりすることはよくない。それが自分にとって気持ちの良いことであったとしても、それは違うと思う。何だろう。
誰かを傷つけることも他者がいて初めてできること。誰かを傷つけて幸せなのは他者と比べて優位性を示したいから?
となると、内面の悩みはないというのは、その誰かを貶める優位性も内面の問題ではなく、他者との人間関係の歪みであることを指しているのだろうか。
ここら辺は善悪は、自分にとって、ためになるかならないかであると書いてあったので、善悪論は僕の主観でしかない。その人のためになるのであれば、社会のルールは関係ないという立場が適切な気もする。

ここまで読んできて思うことは、アドラー心理学は「想い」の強さが重要なのだなと感じた。誰かではなく、「僕」が「僕」の人生を生きることが幸せの一歩であって、選択権は他人に委ねない。ただ、その生き方は誰かに非難されるかもしれないし、敵を作ることになるかもしれない。


誰にでも優しい人という言い訳とともに、他人の人生を生きることが、本当に幸せなのかい?と背中を押してくれてそうな、やんわりキツいこと言ってくれてるような何とも言えない感じではある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?