言葉を受け止める受容体があるコトないコト。
同じ文章を見て、
朗らかな気持ちになる人もいれば
傷つく人もいる。
優しい言葉が全て優しいとは限らない。
優しさの中に厳しさがある時もあるだろう。
優しさの中にもトゲがある時もあるんだ。
世の中には本当にいろんな人がいる。
優しい人もいれば、怖い人もいる。
いい人もいれば、いやな人もいる。
正直な人もいれば、いやみを言う人もいる。
自分の前でと違う人の前では態度が180°違う人もいる。
最近思うのは、なにも自分への当たり方が全てではなく、複数の面を持ち合わせながら人は生きているということ。
自分だってそう。
当然、会社の時の自分と友人や恋人の時の自分はちがう。
だからその人のある面(一面)だけで認識するのではなく、多面的に見たい。と以前noteに書いた。
こんな人がいる。
普通に話すと優しい。
第三者が会話の内容を聞いていても特段違和感がない。
でも自分は時々違和感を感じることがある。
その方の、
「言葉そのもの」にはトゲは無いけれど、
「言葉の使い方」にトゲを感じる。
語尾の使い方やイントネーション、微妙な間のとり方でトゲを感じるのだ。
たぶんその人は自分のことを嫌ってはないと思う。
でもトゲを感じる不思議。
また別の人。
明らかに第三者が聞いたらトゲのあるような内容。
でも自分にはスっと入る。
あとから、「大丈夫だった?」と言われるが、
なにが大丈夫なんだろう??
全然そんな事ないのに〜と。
ここから感じるに、
もしかすると、
受け止める「コトバの受容体」が前者にはなく、後者にはあったのかもしれない。
日常から優しい言葉・人ばかりに触れている人はちょっとした叱責に耐えられないかもしれない。
逆に普段から怒られてばかりの人は、優しくされるとむしろ不安になるときがあるかもしれない。
昔、理不尽に怒られたことがたくさんある。
褒められる方が少なかった。
だからこそ今は、怒られるということに対しての受容体があるんだろう。
でも、優しい言葉の中のトゲという受容体はない。
きっと言っている本人もそんなことを自覚して話していないと思う。
どうしたらその受容体ができるんだろうか。
たくさん触れることなんだろうか。
気にしないことはできない。
以前、くどうれいんさんの「虎のたましい人魚の涙」を読んだ。
優しいテイストで描かれているが、急にハンドルを180°回したかのような
切り返しと独自の視点にたいそう驚きを隠せなかった。
「言葉」自体の持つ力もあれば
それを誰がどう使うかによって
カドにもマルにもなりうる。
ナイフをものを切る目的で使えば便利だが
人に向けると凶器になるといった具合に。
言葉の使い方。
これは普段なかなか意識できない。
この文章を読むあなた一人ひとりによって捉え方は変わるだろう。
だからこそ言葉って面白い。
言葉を使いこなすことはたぶん出来ないけれど
言葉に操られないようにはなりたい。
また難しいことを書いてしまった。
読んだあなたに伝わるといいな。
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