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心理的安全性/安心安全な場、について思うこと

セラピストがクライアントに与えられる唯一のものは、
「あなたの人生にはいろいろなことがあったかもしれないけれど、少なくとも私と共にいる今ここだけは安全だよね」
という感覚だけだ。

これは、わたしがある先生から、ボディーワークのトレーニングの場で言われた言葉だ。深く納得したし、今でもそのとおりだと思っている。

心理的安全性、という言葉について語りだしたらずいぶん連載になってしまいそうだし、その言葉の意味するフレーバーも、それが運用される場によってだいぶ違うものになるはずだ。

最近ボディーワーカーとして、組織開発の現場に関わらせていただくことが増えると、その「フレーバーの差」みたいなものはひしひしと感じる。今はまだ、セラピーなどの臨床の現場と、自己探求的な場で使われるそれと、組織という現実的な落とし所を求められる現場での意味するところの差異と共通点を洗い出しているところではあるのだけれど。


少なくとも個人の自己探究的な場においてはそれは

「何を出しても大丈夫な場作り」

というような言葉で言われることが多いだろう。しかしそれは時に非常に暴力的だということをよく覚えておきたい。

「私もオープンになるから、さああなたも心を開きなさい」

という態度と非言語のエネルギーは、ある意味ハラスメントである。私も何度かその手の、セラピーと称された暴力的な場で居心地の悪さを感じたことがある。カタルシスが癒やしと思っている場では「出してこそなんぼ」な空気が漂い、そういう場では思いっきり防衛反応が出てますます固く閉じてしまう私であった!

真の安心・安全な場とはむしろ、

「心を開かなくても、本音を出さなくても、大丈夫」

という場なのだとある時気付いた。

「何かが、起こってもいいし、起こらなくても、いい」

変化というのは、良い方向に向かうものであったとしても、圧倒的未知に向かう旅だから必ず不安や怖れが伴う。そこを超えるリソースが、あるか。

変化に対する許容量というのは人それぞれなのだ。

その人のタイミングが満ちる時を待てるか。

「さあ、開け!」

とどこかで思っているなら、見えない部分を抱えている人と共にいることに自分が耐えられないからこじ開けようとしているのではないか?という自分への問いかけが必要だ。

自分のこころの平安のために、その人の許容量を超えたことを、なにか「合法的な感じで」強要しようとしてはいないだろうか?

自分の中にも、この手の優しい顔した暴力は、まだ出てくる時があるなあ、と気付く。


セラピーであれビジネスの場であれ家庭であれ、どんな現場にあっても、まずは自分にやって来る「居心地の悪さ」「何かを強いたくなる感じ」「不安」に気づき、それを抑圧したりジャッジしたり人に押し付けたりするのではなく「ひとまずいっしょにいられるようになる」というのが第一ステップなのだろう。

月に一度、曹洞宗の僧侶である藤田一照さんが主宰される「臨床家のための無心のマインドフルネス研究会」でこの数年学ばせていただいているけれど、今日まさに

痛みを押さえつけるのではなく、痛みとともに生きる
”dance with pain”

というお話があった。

dance with pain.
痛みとダンスをする。

すてきな言葉だ。

場作りをする人に必要なスキルとは、何かを起こすための力だけでなく、
何も起こらないことも許容できるような落ち着きとスペースが自分の中に持てること。

そのためにまず「どんな自分の心の動きにも意識的になり、それとともにいられる(ダンスできる)」ようになろう。

他者との関係性、創り出される場。
その雛形は、いつだって自分との関係性なのだ。




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