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大発見|「三月街」に見る呂氏の痕跡

まず、本題に入る前に、前提の考察情報として下記をお読み頂けると理解が早いと思います。

1.河南は呂不韋の封地→こちらの記事
2.不韋県で何が起きていたのか→こちらの記事
3.不韋県は要地であった→こちらの記事 
4.呂氏通商ルート→こちらの記事

本当にかいつまんで、言いたいことをまとめておきます。詳細は上記のリンク先をご覧ください。

①呂氏は河南と雲南省(不韋県、大理市など)を商業的に統治した
②呂氏はシルクロード西南ルートを秦の時代に開通させていた
③河南省と雲南省を繋ぐ痕跡が現代まで残っていた

私は今まで、歴史的にかき消された呂氏の痕跡を辿ってきました。そのポイントの1つは通商ルートにあり、「商人の目」から古代中国を探ることで見えてくると考えてきました。戦国の世の中において、重大な役割を果たしたのは「お金」です。その財力をベースに、政治の裏舞台から外交までを担い、途中から「忽然と消されてしまった」のが呂氏です。

そう、キングダム読者ならご存知、呂不韋です。秦の統一は呂不韋がいたから成し得たと言っても過言ではないはずなのですが、統一前に「死んだ」ことになっています。

本題から外れるので進めましょう。

今回、①~③を繋ぎ、特に③に関する調査研究を進めていました。ベースとなる著書は、「日本文化のルーツを探る~秘境・西南シルクロード」(学生社・孔健著)です。

著者の孔健さんは、実際に中国シルクロード西南ルートを旅した方です。この著書の中に、こんな文章がありました。

1986年、私は年に一度ひらかれる「三月街」という市を見ることができた。この市は唐の時代に始まり、1300年余の歴史がある。博南古道での物産交易会として知られている。市の立つ日には、同自州の各県、市や省都の昆明、さらに四川、河南などの省から、 物産の交換のため訪れた商業部門の人たちで賑わう。諸民族の農民も四方から集ってきて、ここで農産物や工芸品を交換しあう。川月街の市は7日間開かれ、この間にアトラクションもおこなわれる。この市は、盛大な物資交流会であるとともに、民族間の相互援助の精神の具体化ともいえる。(P94-95)

ここでまず「本当か…」と目を疑ったのは、雲南省大理市で年に1度開かれる市に、河南から商人が訪れているという事実です。

中国の地理に詳しくない方のために、地図を掲載します。市に集うのは、昆明や四川(成都)、河南という具体的な地名が書いてあります。

大理市

見てください。河南省の省都である鄭州市から大理市までは、1,630kmもあるのです。この1,630kmって、異常な距離なんですよ。私はこの文章を読んで素通り出来ませんでした。中国は国土が広いので、大したこと無い距離に思えてしまう方もいると思いますが。(ちなみに、鄭州市は河南省の省都であるため、便宜的に選んだだけです。後述します。)

例えば、札幌~鹿児島が直線距離で1,588kmなんです。1,630kmは、それより長い距離。この距離を移動してですよ、わざわざイチ地方の、とんでもない田舎の(言葉悪くてすみません)市(いち)に参加するには、相当の理由がないと納得出来ないわけです。

河南省の物産品を売るのであれば、大理市である必要性は全く有りません。なぜ、わざわざ大理市に出向くのか。こういう、小さくも文化として続けられているところに疑問を持つことは、非常に大事なことです。

実は、下記の記事の有料記事部分には、「商人ルート」を画像で載せています。

そのルートを結ぶ拠点の中に、雲南省保山市(もとの不韋県)、雲南省大理市をきっちり記載しています。シルクロード西南ルートの要所なのです。決して後付けではありません。

また、河南省開封市も記載しているのですが、そこはシルクロード北ルートの要所です。ユダヤ人がコミュニティを作っていた場所です。呂不韋は、このユダヤ人コミュニティのある河南を封地としていたのです。ちなみに呂不韋の生まれも河南省。

繋がりましたでしょうか。

もう一度、整理します。私の推測ですが、呂不韋は雲南省不韋県(今の保山市)に左遷されたことになっていますが、そうではない。彼はシルクロード西南ルートの要所である雲南省の地において、秦統一のための財力構築と西側諸国との外交を担った。それは保山市が実質的に西側諸国との玄関口であったからである。呂不県では「中国で売れるもの」を呂不韋が仕入れ、陸路で大理市に運び市を開く。そこから河川を使い、成都で市を開く。成都から陸路+河川(黄河)で、自らの封地であった河南(開封市)で市を開く。古代ユダヤ人はユダヤ商人としてネットワークを築く。その中で財を成し、多くの民族を徐々に従え、人的リソースも手に入れる。それが秦の圧倒的なチカラとなり、統一に加勢する。

私が記事に書いて考察してきた地、つまり雲南省不韋県(保山市)、雲南省大理市、四川省成都、河南省開封市が繋がったのです。それが決定的になったのが、冒頭で紹介した書籍の文章なのです。

三月街の様子です。

三月

三月1

なぜ唐の時代になってから大理市で市が開催されたのか、という疑問が残ります。

そこには、異民族(羌族=呂氏)vs漢民族という民族紛争の構図もあるでしょう。漢を興した劉邦亡き後、彼の妻である呂雉を含む呂氏一族が抹殺されました。中原・河南にいた呂氏は、その頃に劉一族にほとんどが誅殺されました。但し、不韋県の呂氏は生きながらえてます。

それは、その後の三国志の時代、蜀に使えた呂凱から分かります。彼は雲南省保山市の生まれの呂氏なのです。

雲南省の呂氏は、一族が河南の地にコミュニティを持っていたことを忘れなかった。ほとんどが劉一族に誅殺された。ただ、もしかしたら河南でも生き延びた呂氏がいたかもしれない。その繋がりを復活させるまでには、時間がかかった。そして唐を建国したのが、李淵。彼は李信の子孫なのです。

唐より前の時代、なんと李信の子孫は羌族と混血します。それが拓跋珪。北魏を建国した宗主です。そう、呂氏のベースであった羌族と李信の子孫が、ここで繋がるのです。なんという壮大なドラマでしょう。

李氏の一部が羌族と混血し、北魏を興す。その後、李淵が唐を建国する。その唐の時代に、雲南省大理市で市が開催される。となれば、羌族である呂氏は中華全土から一堂に会するのも自然の流れであって、雲南省はもとより、河南から人が駆けつけることは全くおかしくないばかりか、当然でもあるのです。それくらい、血の繋がりを大事にしている氏族だったのかもしれません。

そうです、市という名の下に羌族が集う集会でもあったのです。政治的な動きをした場合、また消されてしまう。それが商売や祭りであれば、上手くやっていける。実際に、羌族は古代中国において一大勢力だったわけですが、現在では人口が少なくなってしまっています。これも機会があれば書きます。

最後に。三月街は白族(ペー族)の祭りとして、国家無形文化遺産に登録されています。今でも続いています。

この白族は、羌族の末裔です。つまり、羌族呂氏と同じなんですね。今度また書きたいと思いますが、白族は日本とそっくりの文化を持っています。どうしても派手な武力統治に目が行きがちですが、いつの世も文化とお金が時代を動かします。

尚、唐代には南詔国とのシルクロード西南ルートを巡る争いもありましたが、こちらもまたの機会に書きたいと思います。

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