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生きていた呂不韋、河川へと繋がる呂氏通商ルート①

さらに文献をベースに私の妄想を固めていきたいと思います。下記の記事の続きです。

巴蜀の経済発展と秦統一への影響

今回は「呂不韋が不韋県に行った理由は左遷ではない」という私の妄想について、1997年12月に発行された、羅二虎(Luo Erhu)氏「秦時代における中国西南地域の民族」をベースに更に考察してきます。

巴蜀地域に大量移民を送り秦国で実施されていた郡県制を巴蜀地域にとりいれ、段階的に広く推し進める事によって、この地域の支配を強固にしていった。この政策の成功によって、以後、巴蜀区域の経済が発展し、秦の中国統一戦争に有力な支援を与えることになった。(P319より)

上記より、前回記事にある通り「お金・人・武器」を調達しやすくなったことは間違いなく、しかも秦の統一に多大な影響があったことが読み取れます。でも誰が・いつ・どのようにしてシルクロードの西南ルートを開拓し運営していたかは史書に残されていません。

(巴蜀地域に)政府が計画的に普通の民を一家を挙げて移住させたのが最も普通の方式であり、移民の数量も最も多い。(P343より)

上記より、秦の始皇帝はきっちりと計画立ててこのエリアのガバナンスを強化しようと考えていたはずです。その計画の本丸が、「呂不韋の移住計画」だったのではないでしょうか。

秦の統一に影響を及ぼすほど強力な経済発展エリアに、元相国(丞相)の人間をただむやみに左遷するわけもありません。体裁上「左遷」という形にしたかもしれませんが、才ある商人でなければこの地の利を活かした奇貨(後述します)は扱えないもの。適任者はどう考えても呂不韋しかいないのです。

構築されていた物流網を辿る

呂不韋が不韋県(今の雲南省保山市)に入った後から、シルクロード西南ルートの商売が活発化したと思います。では、呂不韋をはじめとした商人たちはどういうルートで中国国内・国外に物流網を築いたのでしょう?

その前に、大事なことを1つ。

キングダムの読者、三国志の読者は、各国の戦争が領土の奪い合いにあったという刷り込みが強いので(その通りなのですが)、どうしても視点が「将軍目線」になってしまいがちです。

ここで、一度「商人」になった視点で中華全土を見てください。国内の物流網が見えてきます。

…と言ってもピンとこないはずなので、下記の図をご覧ください。

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