約束の地は2つあった
前回、「呂氏の始祖・呂尚」について書きました。呂尚は紀元前11世紀あたりの人物です。
中国に羌族が移住する時代背景
ここで気になることがあります。
北イスラエル王国の滅亡後に、失われた10氏族が東へ移動し、そのうちの1氏族が羌族になったと仮定した場合…北イスラエル王国滅亡が紀元前722年なので、呂尚の時代と合わないのでは?
おおまかな年表にするとこんな感じです。
モーセのエジプト脱出(旧約聖書の中でも大事件として扱われた)が、紀元前12世紀です。イスラエル人たちがモーセに率いられてエジプトを脱走し、40年間荒野を放浪して約束の地であるカナンに辿りついたというものです。
この時から既に中国への移住が始まったと見ています(後述します)。
移住先があるからこそ、北イスラエル王国滅亡後に、迷わず東=中国に向かうことが出来たのです。受け皿がないところにいきなり行くことなんて出来ません。
イスラエル人たちが始祖とするアブラハムは、旧約聖書によれば「カルデアのウル」からカナンの地へ移住してきたことになっています。
40年間荒野を放浪して約束の地であるカナンに辿りついた
私のnote記事を真剣に読んできた方は、もうお気づきでしょう。この「カナン」という地名に隠された謎が見えてきます。
約束の地は2つあった
そう、もう1つのカナンは、中国の河南です。
カナンはヘブライ語では「כנען Kənā‘an(クナーアン)」と発音し、河南は中国語では「Hénán(ファーナン)」と発音します。ちょっと中国語の発音をカタカナにするのが難しいので限界があります、ご勘弁ください。
読み方が似てるから偶然では?と言う人がいるかもしれませんが、こういう妄想的なアプローチはとても楽しいアプローチです。私は過去にユダヤのシオンをキーワードに、中国の楚と日本の熊襲を繋げたりしてきましたので(「古代の血の継承」をご参照)、歴史学者が絶対にやらない誇大妄想から紐解くお遊びだと思ってください。
では、中国の河南をもう少し見ていきましょう。
中原の中心地・河南
<河南>
古の豫州があったことから、略称は「豫」である。省都は鄭州市。古代の中原の中心地であり、中国の中でも歴史のある地域である
(ウィキペディアから引用)
なんと河南という地域は、中原の中心地でした。中国文明発祥の地とされています。その後も重要地であることは変わらず、殷(商)の都・安陽と鄭州、東周から長く都が置かれた洛陽、宋の都開封の4大古都を有しています。
では、呂氏と河南の繋がりをサクッと復習しましょう。
①呂尚の一族は居住地=呂(河南省南陽市)にちなんで呂氏を名乗った
②呂不韋は河南省で生まれた
③呂不韋は河南を封地としていた
ゾクゾクしてきましたね。
妄想考察
私の妄想はこうです。「約束の地」は、西と東に1つずつありました。神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地を「約束の地」と言いますが、聖書にも書かれているカナンと、隠されている中国の河南です。
イスラエル人たちが始祖とするアブラハムは、シナイ半島カナンの地へ移住してきました。
また、古代イスラエルの1氏族は、長い旅路の果てに中原に約束の地「河南」を見つけ、そこを東のカナンとして移住しました。移住してきた異民族は、羌族(チャン族)と呼ばれています。
その移住先、河南省南陽市西部が呂と呼ばれていたことから、羌族である姜子牙は中原の民と同化していくために姓を「呂」に改めます。これが呂尚であり、呂氏の始まりです。
この河南をベースとした氏族=呂氏の子孫が、呂不韋です。呂不韋の実子=嬴政が史上初めて統一国家を作ります。これが、皆様ご存知の「秦」です。
秦は、ギリシャ語でSinae=シナエと呼びます。秦(シナエ)にある河南。これは、シナイにあるカナンと同じ立て付けです。繰り返しになりますが、約束の地は2つあり、1つはシナイのカナン、もう1つは秦の河南です。イスラエルから脱出した氏族=羌族は呂氏として中華に根を下ろし、やがて長い年月を経て中華を統一するのです。
こう考えると、羌族である呂不韋の実子が嬴政であり、嬴政が秦を建国したことは不自然ではないと思います。中国においては、古代ユダヤ系の血が入った嬴政が、初めて中華を統一したという不都合な真実を隠したいのかもしれませんよね。
そしてこの河南を巡っては、その後も異民族が侵入する「狙われる土地」となります。秦の蒙恬将軍亡きあと、この地に侵入してくるのが匈奴です。ここはもっと複雑になっていきますので、またの機会に。
ちなみに…河南の略称である「豫」は、預言者の豫です。預言者=モーセ。
本日も誇大妄想にお付き合い頂き、ありがとうございます。いつも妄想で書いてますので、正論なコメントはお控えください(笑)。
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