見出し画像

不韋県で何が起きていたのか

<前回の記事>
呂雉の残忍性と呂氏一族の滅亡

前回の記事では、「呂氏は劉一族によって滅亡させられた」と書きました。この滅亡した「呂氏」とは、2系統のうちの1系統です。よって、もう1系統は滅亡を逃れていたはずです。

おさらい

まず、「呂氏2系統」についてのおさらいをしましょう。

今まで私は、過去の記事においても呂氏が羌族(チャン族)であると述べてきました。羌族は、古くはイスラエルから逃れてきた古代ユダヤ系の民であり、長く移動する間に大きく2系統に分かれます。

1系統は東へ向かい、中国東部の先住民(中原の民)と融合し、漢民族文化を開く先駆けとなりました。これが「羌姓呂氏」であり、呂氏の始まりです。勢力を築いた土地は、今の山東省です。もう1系統は西の地で定住し、西戎または西夷(西羌)と呼ばれます。この地が、今の甘粛省です。
「徐福が日本に伝えた呂氏春秋」参照)

紀元前11世紀頃、羌族の姜子牙が呂姓を名乗ってから、子孫に呂不韋や呂雉が出てくる系統が、東の羌族です。一方、西の羌族は、同じ紀元前11世紀頃に「呂氏」を名乗ったという史実はありません。司馬遷の『史記』では、この西の地の呼び方である「古蜀」が、紀元前316年に秦の将軍司馬錯に滅ぼされたことが記されるのみです。

ということは、少なくとも紀元前316年までには、西の地に古蜀という国が存在していたということになります。恐らくこの地を統治していたのが、西の羌族だと思います。東の羌族は呂氏になり、西の羌族は呂氏と名乗ることはなく、古蜀の地で勢力を保ちます。

いつから西の羌族が呂氏になったのかは、妄想するしかありません。本記事の結論から言いますと、「呂不韋が封地である河南を出て、古蜀に行った」ことがきっかけだと思います。

不韋県で生き延びた呂氏

現在の雲南省保山に、不韋県という場所がありました。赤い印のあたりです。呂不韋からあえて「呂」を取り、不韋だけ残しました。どうしても「呂」は消し去りたいみたいですね。

この不韋県の由来は、2つあるとされています。いずれも武帝の時代です。

1つ目は、漢の武帝が南越の丞相(事実上南越のトップ。最後は漢に討たれた)である呂嘉の一族を強制移住させ、その集落に彼らの先人の悪事を明らかにするという意図から「不韋」と名付けたという説。(三国志蜀書呂凱伝)

つまり不韋県の呂氏は直接的には南越の呂嘉一族の子孫であるが、その血縁には呂不韋がいたのだ、ということになる。

これは分かりやすいですね。「呂氏」を悪者にするという明らかな意図が感じられます。異民族であるから、漢民族の中華としては認めないという構図です。

私が思うに、秦の時代の統治方法として、広大なネットワークと財力を持つ呂氏を丞相の地位につけて、政治の中枢で発言力を持たせていたはずです。秦における呂不韋然り、南越における呂嘉然り。呂雉も皇帝の妻ですがまた然り。呂氏=羌族は中華の中枢で、大活躍していたと思われます。

今まで書いてきた取り、前漢以降、漢=劉一族の正当性を史書上で証明するために、異民族・羌族である呂氏は、その影響を消されるか、悪人にされてきたと妄想するわけです。

そして漢の武帝による呂氏の強制移住です。呂雉の死後に「東の呂氏」を皆殺しにしたのに、漢の武帝がいるはずもない「呂氏の残党」を移住させるということがあり得るのでしょうか。

紀元前180年に呂雉が亡くなり、その2ヶ月後に「東の呂氏」が滅亡させられるわけです。武帝は前漢第7代皇帝であり、在位期間は紀元前141年~紀元前87年とされています。呂雉の死、呂氏の誅滅が起きた紀元前180年から、武帝が在位する紀元前141年までは、「空白の39年間」があるのです。この間、「実は呂氏は誅滅されずに生きていた」とは史書に一切記載がありません。どうにも、辻褄が合わないのです。時系列的に矛盾があるのです。

呂氏は誅滅されずに生きていた人たちがいて、それが「西の呂氏」だと考えることは不自然ではありません。

もう1つの説は、秦の時に失脚して死んだ呂不韋の遺された一族を蜀に強制移住させていたが、漢の武帝の時に永昌方面を開拓植民した際、蜀に移住させられていた呂氏を更に永昌に移住させ、その集落を先祖の名を取って「不韋」と名付けたという。(後漢書地理志)

これも違和感を感じます。呂不韋の一族を、彼の失脚に乗じて蜀に強制移住させる意味が良く分かりません。なぜなら、呂不韋は失脚後に封地の河南で生活しており、その後嬴政に命じられて蜀の地に移住することになっているからです。失脚=蜀への移住ではないはずです。紀元前237年、53歳で秦の丞相を外されて封地である河南に行った時点で、既に失脚なのです。

よって、本格的に呂氏一族が蜀に移住するきっかけとしては、呂不韋が入蜀した時点だと思います。

始皇帝は猜疑心が強い性格で法に厳しい人だった…と言うのであれば、呂不韋は不義があった時点で即刻死刑であったはずですし、その時に一族郎党死刑ということであれば納得出来ます。

しかし、結果的に呂不韋は封地河南で「生かされていた」わけです。呂氏一族も、お咎めなしなのです。この事実は大変重いです。

5万人の秦人を統治した人物は誰なのか

実は秦ではこの時、1万戸の民が蜀の地へ移住させられました。では、当時の1戸あたりの人数は何人なのでしょう。

<参考:戦国時代の戸>
当時の法令の記録によると、当時の一戸の平均人数は大体5人、その5人のうち2人を「卒」とした、とある。

上記より、1戸あたり5人としましょう。1万戸の民=5万人になります。

では、5万人を強制的に移住させた地に、「悪者」の氏族である呂氏を移住させるというのは、良策でしょうか。呂不韋が悪巧みを働き、中央への反乱分子として蜂起する可能性はゼロでしょうか。普通に考えて、5万人を強制的に移住させた地に、罪人である呂不韋やその氏族がこぞってやって来て、恨みも不満も持たずに平和に暮らせる時代だったのでしょうか。

陳勝・呉広が、「規定通りの時間に間に合わないから」反乱を起こした時代です。彼らは、たった数百人で蜂起したと言われています。秦が滅んだきっかけですね。

違和感しかありません。

私は、呂不韋の蜀への流刑は「呂不韋を悪人たらしめる」ための創作であって、実は呂不韋が蜀の地に入り、既に移住させられていた秦人1万戸の民(多くが「東の呂氏」)を統べたと考えています。統治者は呂不韋です。目的は、秦(呂氏)の勢力拡大と通商。呂不韋と、子の嬴政、羌族の血が流れている2人が図った作戦だと思うのです。

5万人という数は、この時の秦であれば将軍・大将軍の率いる人数です。よほど信頼のおける将でなければ、嬴政が任せることはないでしょう。あの王翦でさえ、相当警戒した嬴政です。強制的移住だけでは片付けられないほどの規模なのです。移住が国策だとすれば、率いた将軍とともに史記に残っていても良いはず。それが一切、無い。

では、将軍ではなく一介の商人だったとしたらどうか。記載がなくても変ではありません。

この時、蜀に移住した呂氏の一部は、既に羌族と漢民族(分かりやすく言います)の同化が進んでいました。呂不韋は蜀のさらに西側を統治していた羌族を一部呼び寄せ、さらに羌族のネットワークを強化します。この兵士が、秦の中華統一まで協力部隊(キングダムでは山の民ですね)として参戦したことでしょう。ちなみに羌瘣も、羌族の戦士だったと思います。

そしてさらに、「西の羌族」も甘粛省から呂不韋に合流します。甘粛省から不韋県までの距離は、約1,200kmです。秦の始祖が治めていた土地が、甘粛省なのです。羌族と仲が悪いわけが無い。エリア的には、国境警備と通商ですね。

呂不韋は子の嬴政から信頼されていたはずです。但し、前漢に編纂された史記では、劉一族を王たる血族として正当化するために、異民族である呂氏の影響は消す必要があった。そのため、呂不韋はなぜか突然、封地河南にいる時に「蜀へ行け」と言われ、そこで自殺したことにされたのです。

急いで痕跡を消したような感じさえします。

呂不韋がこのように、呂氏を率いて領土を拡大・平定する役目を負ったのは、自らが異民族の混血であるからという理由が大きいでしょう。嬴政も当然それを知っていた。中央の争いではなく、異民族との国境周辺を任せた。

蜀~中国西方の安定を得た呂不韋は、その延長線上の戦略として、次に東方=日本への勢力拡大を目指し、徐福として山東省から日本を目指し出航したのです。童を引き連れて。

余談ですが、この不韋県(現在の雲南省保山市)は、南のシルクロードにおける物資の集散地でした。ユダヤ商人としてのし上がった呂不韋が、ここを拠点に莫大な財を築き続けたことは、容易に想像できます。そのような「適正抜群の地」に、流刑になるとは思えません。

ちなみに…西側諸国との交流(シルクロードの発見)を始めたとされる張騫(ちょうけん)による遠征は、武帝の時代です。またもや武帝。つまり、武帝は色々と創作して前漢の威光を高めたのです。秦の時代にも、多国間貿易は行われていたと考えるほうが自然です。

妄想まとめ

呂不韋が5万人を率いて統治した土地が、後の不韋県である
現在の雲南省保山市であり、南のシルクロードにおける物資の集積地

この不韋県出身の呂氏が、後の時代で登場します。これはまた次の機会に。

サポートありがとうございます。独自の取材・考察に使わせていただきます。