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徐福が日本に伝えた呂氏春秋

唐突ではありますが、呂不韋は実は生きていて、徐福に改名後に日本に渡来したという妄想を半分本気で信じて検証しています。この記事では、始皇帝と徐福との関係性や、史書で隠された真実について妄想します。長くなります。

<本題に入る前の復習記事>
隠された呂不韋の氏族④
呂不韋失脚の裏舞台を妄想する

徐福と始皇帝の逸話に関する信憑性

長い間中国では、徐福および不老不死の妙薬をめぐる徐福と始皇帝との出会いが歴史的事実であるかどうかについて、多くの学者は否定的、懐疑的でした。単なる民間伝承に過ぎない、と関心を持たれる事もなかったのです。

ましてや学問的に研究・評価の対象にはなっていませんでした。

その主な理由は、史書の記述が簡略で委細を極めていないこと、そもそも徐福なる人物像が曖昧模糊としたイメージに包まれており、具体的な人物像が浮かんでこなかったことにもよります。つまり、研究しても成果は期待できず、結局は歴史の虚構であるとされて、学問的には長いこと放置されてきました。

徐福が曖昧にされた痕跡

どうやら司馬遷の「史記」では、呂氏の経歴について少し操作したような流れがあります。書としての格が高いのは理解しますが、この「呂氏」という点においては後世のために何かを隠す必要があった形跡がいくつもあるのです。

中国の著名な歴史学者である汪向栄(おうこうえい)氏も、次のように述べています。

「もしわれわれが真剣に中日関係交流史を、とくに日本の古代における発展過程を縄文時代から弥生時代までたどり、慎重な観察と検討を加えようとするならば、この徐福伝説を軽率に否定することはできない。

徐福が東渡して日本にとどまり、再び中国へ帰ることはなかったという『史記』の記述についても、そこにはなにか深い原因と理由が存在したのではなかろうか。

上記の太字部分に関する私の妄想をひとことで言えば、「異民族による血の介入の痕跡の隠滅」です。あえて呂氏(徐福を含む)を曖昧にすることで、詳細が分からないように「わざと操作」されています。日本における記紀にも見られる操作です。これはまた後日、詳しく書きたいと思います。

この記事では、呂不韋=徐福と仮定して話を進めたいと思います。

嬴政(始皇帝)は徐福=呂不韋を知っていた

徐福は、日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせたという言い伝えが残っています。

「私は皇帝の命によって仙薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない。」

それ以来、徐姓を名乗る者は絶えた。

普通に考えて…ただ仙薬を探しに行くのに、それを「たいそう立派な目的」に仕立て、親族を皆集めて、あたかも「仙薬なんて無いから見つからない」ということを事前にほのめかし、「仙薬が見つからなかったら一族皆殺しにされちゃう」と言い訳がましいことを事前に伝え、「だから徐姓を使っちゃダメね」なんて言い残すでしょうか。

この、何とも言えないアリバイ的な創作っぽさが、不自然に感じるのです。嬴政は長寿に固執していたかもしれませんが、見つけられなかったら一族郎党皆殺しということはきっとしないでしょう。もしそれほど横暴であるなら、徐福が一度帰国した時に皆殺しにしているはずです。

では本来どうだったのか、妄想してみます。呂不韋は、徐福に改名したあと(つまり徐氏に成りすましたあと)、日本統治の足がかり作りを始皇帝から命じられます。私の中では呂不韋=呂氏=羌族=古代イスラエル人(ユダヤ人)なので、史記等の書においては、この系譜を「根絶しておかなければ」なりません。

何度も書きますが、日本の国家成立について、純粋な日本人による成立を記紀が「神話として創作」したのと同様に(神話を実話として信じている日本人なんていないと思いますが)、中華は純粋な中国人による国家成立(統一)が必要で、後の時代にも「異民族から領土専有を主張されない」ためにも、その痕跡を跡形もなく消して「創作」しておく必要があります。つまり、中国の史書の中にも、日本の神話に相当する創作部分が織り込まれていて、それが巧妙なのです。

この場面においては、下記の4点が創作されていると考えています。

①徐氏を歴史上から消す=徐福(呂不韋)の痕跡を消すために、このストーリーを仕立てた
②ストーリーを除福(呂不韋)の日本渡航に無理やり結びつけた
③日本渡航の目的は領土拡大であったが、ユダヤ血族による領土拡大は正当化されないため、「仙薬探し」というお伽噺にした
④裏付けとして、嬴政を残忍な人間に貶め、徐福(呂不韋)は嬴政を騙した詐欺師とすることで、血族2人ともに「悪人」にした

仮に徐福が嬴政を騙した詐欺師なのであれば、日本でここまで徐福伝説が広がってないと思いますし、中国の史実が日本に少なからず伝わってきた経緯を考えると、どうも「あぁそうですか」と納得できる部分ではないのです。

逆に嬴政は、ユダヤの血族として父親である呂不韋(徐福)を日本に逃がすための口実として、「仙薬探し」という形を取った可能性もあります。既に失脚・自殺し、密かに埋められたことになっている呂不韋ですが、実は生きていた!となれば統一国家・法治国家として許されることではないですからね。

ここまで考えると、嫪毐(ロウアイ)の太后(趙姫)との情事や反乱も、太后や呂不韋を貶めるための創作だったのでは…と疑いたくなるほど、滑稽なお話に見えてきます。巨根に狂う女…(笑)。

この章のまとめ。嬴政は徐福=呂不韋ということを前々から知っていて、日本への領土拡大を呂不韋に託しました。古代ユダヤ人の血族としての領土拡大を隠滅するために、書の中では彼らの血族は悪く書かれ、「なかった」ことにされました。

嬴政と徐福(呂不韋)の日本領土拡大

ここでは、嬴政(始皇帝)と徐福(呂不韋)の再会から、日本への領土拡大作戦について見ていきたいと思います。

<全国巡行・第1回会談>
始皇帝は中華統一から2年後、紀元前219年に2回目の全国巡行の旅に出る。旅に先立って始皇帝は会稽山に登り、天下統一の功績をたたえる碑を建てた。その後、徐福のいる琅邪に三ヶ月滞在した。

この時徐福は、1回目の「不老不死薬」に関する意見書を上奏した。

なんと、中華全土が物凄く広大であるのにも関わらず、始皇帝は琅邪に3ヶ月も滞在するのです。これは徐福=呂不韋=父親との再会と、日本への領土拡大のための作戦会議・準備だったと思われます。

不自然なのが、「会ったばかりの除福」に大役を背負わせ資金も提供することです。「猜疑心の塊」とされた始皇帝が、「初見のどこの誰だか分からない」徐福に、そんなことを任せるでしょうか。

まずこの「琅邪(ろうや)」ですが、現代では山東省東南部のエリアになります(上記図の★)。もともと斉国だったということ、そして山東省ということ、この2つのキーワードで、当サイトの他の記事をご覧頂いている方はもうピンと来ているはずです。

そしてこの琅邪という土地、秦が滅んだあとの前漢では、徐州に属しています。徐州=徐氏の州です。あれ…徐氏って、徐福が日本に渡航する時にもう「名乗らない」ことになってましたよね。歴史からこつ然と消えたんですよね?つまり、秦以降の時代にここが「徐氏の州である」ことはあり得ないのではないでしょうか。なぜ徐州という名称が使われているのでしょうか。「徐氏を名乗らない」くだりは、後世の創作なのではないのでしょうか。

<全国巡行・第2回会談>
始皇帝の第2回目の徐福との会談は紀元前210年である。徐福は、この時再び琅邪を訪れた始皇帝と会見し再度「仙薬」を求めて渡海すべし、との命を受ける。

史記の「淮南衡山(わいなんこうざん)列伝」によれば、「始帝大いに喜び、良家の男女三千人を使わし、五穀の種と百工をたずさえて渡海させた。徐福は平原と沼のある島にたどり着き、そこにとどまって王となり、帰ってこなかった。人々は嘆き悲しんだ。」となっている。

思うに、不老不死とは始皇帝自身の不老不死ではなく、古代ユダヤ人「羌族」としての不老不死=血の根絶阻止のための領土拡大だったのではないでしょうか。既に始皇帝も徐福も、漢民族(広義の意味で使ってます)や他の異民族から狙われ続けているのを知っていたのです。

そんな争いの絶えない中華ではなく、さらに東の「約束の地」を求めて、羌族の旅が琅邪から始まったと言っても過言ではないと思います。山東省からなら、海路で日本に行けます。

また、本当に「気が短く横暴」だとされた始皇帝が、なぜ「そんなに知らない」男であり「詐欺師」とまで言われた徐福を許し、二回目の渡航を許したのでしょうか。詳細はネタバレするので伏せますが、大役を任せた秦の将軍がその大役を果たせず失敗した後、二度とその将軍は大役を任すことがなかったというエピソードもあります。それなのに、同じ大役を背負った「あんまり知らない出会ったばかりの」徐福だけは、なぜか失敗が許されているのです。

徐福は、始皇帝が本当にそれまで知らなかった男なのでしょうか。初めて会った男に、人も金も提供し、首都・咸陽を離れ琅邪という田舎で大した理由もなく3ヶ月も滞在するのでしょうか。

この章のまとめ。始皇帝が父親である呂不韋(徐福)と再会したのが、この琅邪であり、再会した目的は「羌族の生き残りのための、日本への勢力拡大」の会議と準備のためでした。

徐福が日本に伝えたもの

徐福が日本にやってきた際、様々なものを伝え、そして日本における生活様式や文化が大発展しました。特に農耕・製紙などの技術を伝えたことで、日本の文明の大きな転換点となったのです。

徐福=呂不韋が日本にもたらしたものは、呂不韋が編纂した「呂氏春秋」ではないでしょうか。

天文暦学や音楽理論、農学理論など自然科学的な論説から、思想においては儒家・道家を中心としながらも名家・法家・墨家・農家・陰陽家など諸学派の説が幅広く採用された書物です。

縄文時代から弥生時代への過渡期である日本文化の醸成に、相当な影響を与えたと想像できます。その時代に、口伝だけではそれほど急速に文化は定着しません。日本各地に残る徐福伝説は、徐福という人間そのもののみならず、徐福がもたらした「呂氏春秋」という当時革命的な知識集の来日だったのではないでしょうか。ほとんどマジックのように思える先進技術が、徐福や呂氏春秋を神がかり的なシンボルとして祀ったのではないでしょうか。

これが日本における秦氏(はたうじ)の勢力形成の源になった可能性は、ゼロではないと思います。

余談:始皇帝・全国巡幸の理由

始皇帝は、統一後に5回に渡る全国巡幸を行ったとされています。

<始皇帝・巡幸ルート>
◇第1回巡幸(紀元前220年):咸陽➔隴西➔鶏頭山➔回中➔咸陽
◇第2回巡幸(紀元前219年):咸陽➔泰山➔之罘➔成山➔琅邪山➔彭城➔南群➔湘山➔南群➔武関➔咸陽
◇第3回巡幸(紀元前218年):咸陽➔陽武➔之罘➔琅邪山➔上党➔咸陽
◇第4回巡幸(紀元前215年):咸陽➔碣石➔上群➔咸陽
◇第5回巡幸(紀元前210年):咸陽➔雲夢➔浙江➔会稽山➔琅邪山➔之罘➔平原津➔沙丘(死去)➔咸陽

始皇帝が巡幸した地の多くは、西側・甘粛省と東側・山東省です。これは先祖ゆかりの地を巡ったわけです。意味もなく膨大な距離を巡幸したわけではありません。説明します。

今まで私は、過去の記事においても呂氏が羌族(チャン族)であると述べてきました。羌族は、古くはイスラエルから逃れてきた古代ユダヤ系の民であり、長く移動する間に大きく2系統に分かれます。

1系統は東へ向かい、中国東部の先住民(中原の民)と融合し、漢民族文化を開く先駆けとなりました。これが「羌姓呂氏」であり、呂氏の始まりです。勢力を築いた土地は、今の山東省です。もう1系統は西の地で定住し、西戎または西夷(西羌)と呼ばれます。この地が、今の甘粛省です。

始皇帝=嬴政は、呂不韋の子供ですから、呂氏=羌族の血が流れています。よって、始皇帝が巡幸先として、甘粛省と山東省を多く選ぶことは、先祖ゆかりの土地を巡る旅であり、何ら不自然なことではありません。

(参考)
歴史学者の翦伯賛氏は秦人の源を論証して、秦は東遷した羌族と中原の人の末裔であると説く。「秦の祖先は戎である」という言い方もここから来ている。(さらに詳しく知りたい方は、こちらを参照ください

特に呂氏の血族である始皇帝は、始皇七刻石と呼ばれる権力誇示のための7つの顕彰碑のうち5つを、呂氏ゆかりの地・山東省に建てました。(さらに詳しく知りたい方は、こちらを参照ください

これも始皇帝が呂氏の血族だということを考えれば、自然なことです。今まで、なぜ山東省にこれだけの石碑が建てられたのかについて、合理的な説明を行った人がいません。恐らく私が初めてかと思います。しかも、5回に渡る巡幸中、山東省の之罘(しふ)と琅邪山には、なんと3回ずつ訪れているのです。ここに「何かある」と思うほうが自然です。

始皇帝が徐福と初めて会ったのが、第2回巡幸の時だと思われます。第2回巡幸では山東省を巡るのですが、「徐福生誕の地」とされている琅邪を訪れています。琅邪は、現在の山東省臨沂市。古代中国では東海郡と呼ばれており、「呂尚生誕の地」とされています。(「呂氏の始祖・呂尚」参照)

さぁ、難解なパズルがはまってきましたね。呂尚が生まれた土地=山東省臨沂市で、なんと徐福も生まれたことになっているのです。徐福は、隠遁生活を送っていた呂不韋のはずです。

この始皇帝と「徐福との初対面」を「呂不韋との再会」に置き換えて見てみます。紀元前219年、始皇帝は41歳です。呂不韋が生きていれば、71歳です。徐福は紀元前255年または紀元前278年生まれという説があり、創作の可能性が高いです。前者であれば嬴政より年下で、後者であれば嬴政より年上です。こんな曖昧な説を果たして100%信じて良いでしょうか。

今回はこのあたりにしておきたいと思います。もっと書きたい点があるのですが、より複雑になってしまうのでやめておきます。不自然な点と点を、妄想というチカラを使って線にしてみることで、楽しい歴史の捉え方が出来ると思います。

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