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呂雉の残忍性と呂氏一族の滅亡

前漢においては呂雉、つまり前漢の始祖・劉邦の妻が呂氏の命運を握ってしまいました。

呂氏滅亡まで

おさらいと本記事の主旨

まずはざっとおさらいです。呂公は、あの呂不韋の実子だと思います。呂公は単父の有力者であったそうです。単父とは、現在の山東省菏沢市です。山東省は「呂氏」の勢力拡大地であると同時に、呂雉の生誕地でもあります。
「呂氏覇権ベルト地帯」参照)

仮に呂不韋が25歳の時に初の実子・呂公が生まれたとすると、呂公が24歳の時にもうけたのが呂雉です。呂雉の祖父が呂不韋ということです。ちなみに、呂不韋が31歳の時に生まれたのが嬴政(始皇帝)です。

今日は、呂氏一族の滅亡に繋がった劉邦・呂雉夫妻と、その周辺の情報をまとめてみます。

本日の結論
①劉邦=劉一族の神格化(初の純粋な中国人による中華統一)
②異民族の排除(古代ユダヤ血族=羌族=呂氏の滅亡)

劉邦=劉一族の神格化

日本では、「天皇万世一系」を正当化するための創作が、神話伝承でした。中国でも、「実は異民族が中華を統べていた」とは言えないので、史書の中では異民族は「悪」とされ、呂氏に至っては虐げられ、前漢初代皇帝である劉邦=劉一族は神格化される必要があります。

劉邦にまつわる「逸話」は、特に神話的なので少し見ていきましょう。

・劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に出合い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという。
・劉邦の太股に72の黒子があった、72とは1年360日を五行思想の5で割った数で、当時ではかなりの吉数と言われていた。
・劉邦は何故か人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり店が満席になった。

※史記には他にもいくつかの「劉邦が天下を取ることが約束されていた」との話を載せている。

漢という国が「火徳の帝朝」と称されるための神格化です。ここで少し、五行について書きます。

書き換えられた五行に見える真実

戦国時代(紀元前4~3世紀頃)の斉の思想家、鄒衍(すうえん)が五行説を定式化したとされています。

<鄒衍が定式化した五行>
万物は土、木、金、火、水という五つの要素(五行または五徳)からなるという説。

呂不韋が編纂した「呂氏春秋」では、それぞれを中華の王朝の興亡に当てはめた。【土】伝説の帝王黄帝➔【木】夏王朝➔【金】殷王朝➔【火】周王朝➔【水】秦とした。

それが、劉氏によって下記のように新説として書き換えられます。

<劉歆が唱えた「五行相生」説>
【金】夏➔【水】殷➔【木】周➔【火】漢➔【土】魏とした。
秦は圧制のため正当な王朝とはみなさず、五行に含めないとした。

漢王朝を火徳であるとしたのは、漢の始祖・劉邦を「赤帝(伝説上の王、神皇=炎帝)の子」とするため。つまり伝説の赤帝の子として劉邦を神格化したのです。赤帝は黄帝と協力して漢民族を興したと言われています。

ここに、日本神話の天皇万世一系と同じような「神格化」の痕跡が見て取れます。まず劉邦を伝説の赤帝の子としたこと。「現れるべくして現れた神の子」が劉邦なのです。

もう1点、秦を認めなかったのは「圧政」でないことは明白でしょう。秦=始皇帝=嬴政は、呂不韋(羌族=古代イスラエル人の血族)の子であり、異民族が中華を統べた痕跡を明らかに消すための所業です。

本当にそうなのか。

それはこの五行相生説には続きがあり、そこに答えがあります。【土】魏の後、【金】晋➔【木】北周➔【火】隋➔【土】唐となり、鮮卑(せんぴ)族による北魏王朝を正当な王朝と認めていないのです。鮮卑族も異民族ですから、ここで消されている理由が、まさに秦と一緒なのです。

圧政ではありませんよね。異民族だからです。劉一族が許さないのです。

異民族が中華を統べるという痕跡は、史書から消しておかなければなりません。中国も日本も一緒だでした。ちなみに北魏は、キングダムの李信の子孫が建国しました。興味のある方は下記の過去記事をご覧ください。

<参考記事>
1.李信の子孫が中華統一!?①
2.李信の子孫が中華統一!?②

余談ですが、北魏が最初に戦ったのは劉一族でした。

呂雉の残忍性

話が膨らみすぎてしまいました。劉邦=劉一族を神格化(王として正当化)した一方、異民族に対しては痕跡を消すということを行います。五行にその意図が見え隠れしています。異民族の国は認めない。そして異民族の氏族自体も消そうとします。

劉邦は、妻・呂雉が異民族出身だったことを知っていたかどうか分かりませんが…この呂雉が結果的に呂氏一族を滅ぼす原因となります。

中華三大悪女の1人として有名な呂雉。彼女がどれだけ残忍だったかを少し書いておきます。

・彭越父子を処刑するよう劉邦に進言。劉邦は父子を処刑し、その肉を塩付けにして諸侯に贈った。
・趙王劉友に怒り、幽閉し餓死させた。
・呂雉は劉邦の後継者を巡る政争で、恵帝の有力な政敵であった趙王劉如意やその生母の戚氏らを復讐として殺害した。
・劉如意を毒殺。劉如意の生母の戚夫人の両手両足を切り、目耳声を潰し、厠に投げ落とす。恵帝を呼び、「人豚」がいるからご覧なさいと伝え、それを見た恵帝は最初何だか分からなかったが夫人の変わり果てた姿だと知り気が狂った。

おぞましいほどホラーな呂雉の姿。誰もが恐れた女傑でした。恐らく史実なのだと思いますが…呂氏を貶めるために創作された可能性も、ゼロではないと思います。前漢では、とにかく呂氏を「悪者」扱いにして、劉一族を正当化しなければならない時期でした。

呂雉による呂氏勢力拡大

呂雉は呂一族が前漢の宰相として権力を掌握することにこだわりました。

呂不韋と一緒ですね。

恵帝が酒と女に溺れて気が触れたというくだりも…もしかしたら後世の創作だったかもしれませんね。

呂雉の面白いエピソードが残されていますので、1つご紹介します。

紀元前187年、前漢の皇族・劉襄は斉国・済南郡を呂氏の呂台に献上、そこを呂台の国(呂国)とした。

済南郡とは、現在の山東省済南市および淄博市一帯です。出てきましたね、山東省。ここは呂氏の始祖である呂尚が始祖となった斉国の土地です。

<参考記事>
隠された呂不韋の氏族②

何が言いたいかといいますと、呂氏祖先の統治した斉という土地の一部を、呂雉が劉襄に言いつけて、呂氏一族である呂台に献上させたのではないでしょうか。

「劉襄よ。その斉という土地はもともと我ら呂氏一族がおさめた由緒ある土地であることは良く知っておろう。その後、異民族の田氏がおさめていたが、今はそなたら劉氏がおさめている。ここは斉の始祖である呂氏に一部割譲を願いまする」
――呂雉

…と呂雉が言ったかどうかは定かではありませんが、恐らくこのようなやり取りがあったのでしょう。斉を統治した始祖・呂尚から、呂雉まで脈々と流れる羌族=古代イスラエルの血脈が、歴史の中に残されているのです。

このあたりの異民族の暗躍は、史書では消しておかなければなりません。よって、領土をめぐるストーリーから民族争い・権力争いの真実を妄想するしかないのです。

呂雉の死去、そして呂氏滅亡へ

呂雉は紀元前180年に、61歳で亡くなったとされています。

既に劉邦との子・恵帝は23歳で亡くなっていました(諸説あり)。そして呂雉の死から約2ヶ月で、呂氏一族は全員皆殺しとなります。劉邦の妻として、そして権力者として恐れられた呂雉が亡くなったことで、劉一族は呂氏の抹殺に動くのです。

<呂氏一族の誅滅>
呂氏一族は周勃・陳平ら建国の重鎮、および高祖の孫である斉王・劉襄(前述)、前漢の皇族である朱虚侯・劉章による政変で誅滅されます。
<斉の土地の変換>
その後即位した文帝・劉恒は、呂氏に奪われていた城陽郡(現在の山東省の臨沂市・日照市・棗荘市)・琅邪郡(現在の山東省東南部と江蘇省東北部)・済南郡(現在の山東省済南市および淄博市一帯)を斉に返した。

これで呂氏一族は滅亡。劉一族は羌族が始祖であった斉の土地を支配し、斉の土地で興った異民族=呂氏を排除したのです。前漢の歴史には、秦として中華統一を果たした羌族との異民族紛争であった一面が垣間見れます。

劉邦は知っていたのでは

これも妄想になりますが…劉邦は打倒秦のために、あえて呂公・呂雉に取り入って、呂氏の財力を活用したのではないでしょうか。かなり狡猾な人物像となってしまうため、劉邦を神格化するにあたり創作された可能性はあると思います。

劉邦が死ぬ間際に言ったひとことが、このことを深く考えさせます。

「漢王朝を長らく安んずるものは必ずしや周勃であろう」
と、皇后の呂雉に言い残したとされる。

この周勃、呂氏一族を誅滅させた張本人なのです。つまり、漢王朝=劉一族が長く反映するきかっけを、周勃が作ったことになったのです。それを死ぬ間際に妻である呂雉に告げる。なんという皮肉でしょう。

創作っぽさ満載です。呂雉はどんな想いでこの言葉を聞いたのでしょうね。

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