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呂氏覇権ベルト地帯

今回は、下記の地図から妄想を働かせてみます。キングダムでは、呂不韋の封地として登場したのがこの河南です。先日の記事でも、中国の「約束の地」としても登場させたところですね。(「約束の地は2つあった」参照)

河南地図

この河南を中心として、東に「呂氏の発祥」である山東省、西に秦の首都・咸陽があります。古代中国、特に呂氏、秦~前漢あたりの登場人物と土地の関連性を見ていくと非常に面白いのです。

下記の画像をご覧ください。

出生地図

(画像の著作権は本note著者に属します)

特に薄いグレーのベルト=呂氏覇権ベルトと勝手に命名していますが、ここに集中しているのが分かります。最初は、呂氏に関わる地名をプロットしてみて、「面白いなぁ」と思った程度だったのですが…

❝ん?もしかして陳勝・呉広の乱って…
ここに呂氏を絡めた妄想をしたら…❞

…と、妄想力がまたもや覚醒したわけです。なので、今回も妄想全開で「歴史の常識」を否定してみます。

陳勝・呉広の乱についてご存じない方は、ウィキペディアあたりの情報を頭に入れてください。尚、陳勝・呉広の乱以外の関係性については、過去の記事をご覧頂き、地図を見ながら妄想して頂ければ幸いです。

陳勝・呉広が蜂起した場所から、色々と推測していきます。

彼ら(陳勝・呉広)はまず大沢郷を占領、それから諸県を攻略し、陳を取るころには兵車600乗・騎兵1000余・兵卒数万の大勢力になっていた。陳を攻めた時、郡守・県令は既に逃亡しており、副官が抗戦したがあっという間に陥落した。陳に入城した陳勝はここを本拠とし、即位して王となり、国号を張楚と定めた。

上記は、にわかに信じ難いのです。陳を本拠地として打倒秦の反乱軍を蜂起したので「陳勝」であり、最初から「誰かによる」バックアップがあり、即位したと思います。また、「誰か」によって莫大な財力を与えられ、兵力数万の勢力も与えられたと考えるほうが自然です。だって…あの函谷関を一気にブチ抜くんですよ…合従軍でさえ抜けなかったあの函谷関を!弱っちぃ軍だと到底無理なのです。

また、陳勝・呉広ともに貧しい農民の出とされています。お金で買収するのは容易でしょう。

では、裏で陳勝・呉広を操った「誰か」とは誰なのでしょう。蜂起した陳という土地を見てみます。

<陳(地名)>
現在の淮陽区。河南省周口市に位置する。ウィキペディアより

なんと…河南が出てきました。陳勝・呉広ともに生まれは河南。生まれた時から、河南には縁が深いのです。呂不韋の封地であった河南省洛陽市から見れば、陳勝の出生地である河南省登封県は目と鼻の先。(「約束の地は2つあった」参照)

呂氏の財力がバックグラウンドにあって、嬴政亡き後、趙高が暗躍した秦を打倒しようとしたのでしょう。結果的に、劉邦のストーリーに繋がっていきます。(「隠された呂不韋の氏族③」参照)

ちなみにこの登封県…字から妄想するに、劉邦が登城した土地のような気もします。陳勝という人物すら創作だったのかもしれません。つまり、始皇帝の残虐性を創り出すために、「期日に遅れたら死刑」というエピソードから蜂起させたと考えたら面白いです。

ここで妄想を終えて、陳勝が蜂起した宿州市から秦の首都・咸陽まで歩いたらどれくらいかかるのか調べてみました。945km、約195時間。歩きっぱなしでも、8日以上かかるんですね。

宿州市から咸陽まで

とは言え、この呂氏覇権ベルト、広大な中華大陸においてすべて近い位置関係にあります。現在の中国でも、東西の距離は5,200kmあるわけですから、約1,000kmにも満たないこのエリアに、これだけの覇権エッセンスが詰まっていることは興味深い事実です。

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