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大空をパラで舞う!の巻📚L【前編/後編】
【前編】〜取り敢えず空から〜
【後編】〜九死に一生を得る〜
【前編】〜取り敢えず空から〜
【まえがき】
働き出したら色んなことをしてみたい。
好奇心旺盛であった。
陸海空と全部制覇してみたかった。
まずは、馴染みのある陸。
車かバイクが妥当なところであろう。
バイクも魅力的であったが、なんだがコケそうでしっくりこない。
取り敢えず車から始めた。
その頃から借金やローンは大嫌い。
お金を貯めてから遊ぶのが信条である。
バイトで貯めたお金で、まずは車の免許を取得し中古車を手に入れた。
マツダのファミリアハッチバック365 ブラックカラーを現金一括で購入した。
50万くらいだったが、エアコン、パワーウィンドー、オーディオ、10連CDチェンジャー付、アルミホイール付の当時のフル装備であった。
ただ一つ付いていないものがあった。
それが、パワーステアリング!?
今なら付いていて当たり前の指でも回せるハンドルであるが、当時は気合を入れて自身の腕力でハンドルを回す自力の正にパワー!ステアリングであった。
タイヤも太く、ハンドルも小さめの太いやつに取り換えられていた。
どんだけ重たいか。
勤めてからは同期の仲良しメンバーとコイツに乗って旅行に行ったものである。
そして次!
海にするか空にするか。
【本 編】
私が勤めだした頃は既にバブル絶頂期が過ぎた頃であったが、僅かに名残を感じたように思う。
やりたい事は山ほどあった。
陸海空を攻める。
取り敢えず、陸のものとして車をゲットして楽しんだ。
次は、海か空か。
海に出るための船舶免許の取得を検討するも免許取得後のフィッシングボートがめちゃ高くて買うことができないことに気付く。
空だ!
大空に飛び出そう!
ハングライター、ライトプレーン、グライダーなど色々ある中で、登山家が楽に下山できるよう開発されたパラグライダー。
当時は、まだ耳にすることが少なかったが雑誌で目にしたことがあり気になっていた。
これだ!
近くにパラグライダースクールがないかネットで隈無く探した。
すると発見!
意外と近くにあった。
車で30分位のところの魚住だったかな?
同期のオヤジにオファーし、手始めに体験コースからチャレンジした。
オヤジとは、見た目で当時からオヤジっぽかったので、皆からそう呼ばれていた。
そしてオヤジと私の二人で大空への挑戦が始まった。
まだまだ高価な遊びである。
スクールに来ているメンツは、
何処ぞやの社長、自営業の方、看護師など
高級取りの方がお多い様に見受けられた。
その中に若造の私達二人が参戦した。
体験コースでお味見。
すると、ドハマり!
パラグライダーを購入し技能書を取得するため、更に通い詰めた。
スクールは、若杉高原おおやスキー場で行っていた。
装備一式で軽自動車が軽く買えるお値段である。
でも、そんな事は気にしない。
だって、やりたいんだもの。
オヤジも文句一つ言わず、当然のようにお買い上げ。
機種も色も選ぶほどなく、入荷されたのをそのまま購入する感じであった。
私が手にしたのは、ファルフォークの白色。
片端にレインボーカラーが配色されていた。
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練習機よりも僅かな風を受け止めると、キャノピーが舞い上がる。
冬にはスキーのゲレンデとなる斜面を登り、レベルにあった高さで練習する。
結構ハードである。
キャノピー(落下傘の横長の形で長さが10m程度)のエアインテークに風を受けるとフワッと凧を上げたように頭上に立ち上がる。
ここぞとばかりに前に走り出すと身体に取り付けたハーネスがお尻から持ち上げられ足がゲレンデから浮き上がった。
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今、飛んでいる。
1メートルにも満たないが浮かんでいる。
そう、飛んでいるんだ!
ワクワクした。
更に練習を重ねた。
山の最上階から飛ぶ事が許された。
インストラクターから無線指示を受けるために
無線の免許も取得していた。
ハムのコール番号もゲットした。
インストラクターから無線で操作指示を受け、ブレークコードを引いたり戻したりして操作する。
右に左に八の字を描くように操作し風を拾う。
正に飛んでいた。
練習を重ね次のステップに向かう。
そのためには、更なる上級機が求められた。
そして、
2号機ファルフォーク
大奮発!!
二機目お買い上げ。
前と同じくファルホークの上級機である。
色はイエロー。
UV加工が施され、ツヤとハリがあった。
両側にレインボーラインが配色されている。
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リッターカーは、買えるであろうお値段。
お財布には、当然優しくない。
しかし、迷いはなかった。
何故なら、大空を舞うためには翼が必要だから!
鳥になるためには必要なものだから!
気分は既に舞い上がっていた。
大空を舞う妄想が展開中であった。
新しいその機体は、更に微風でもキャノピーが頭上に持ち上がりライズアップ。
今にも飛び立ちそうになるのを抑えるのが大変なくらいであった。
駆け出そうとするが、一歩、二歩と走り出さないうちに地面から浮き立った。
テイクオフ!
みるみる上空に舞い上がる。
バリオメーターが唸っていた。
バリオメーターとは、昇降計のこと。
気圧を計測してパイロットが上昇しているか下降しているかを音とグラフや数字で知らせてくれる計器のことで、飛ぶ際の必需品である。
垂直速度1m/sの上下差が出るとアラームが鳴り知らせてくれる。
それが鳴りっぱなし。
上手くサーマルを捉えた。
円を描きながら上昇し続けていた。
山頂からあっという間に高度600mを遥かに超えた。
怖いどころかワクワクしていた。
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岩屋フライト基地上空
テイクオフの待機をしている仲間の姿が
アリンコのように小さく見えた。
樹々もジオラマのように規則正しく並んで
いるのが見えた。
テレビ塔が遥か足の下に見えている。
機械動力も無く、ただ風を受け飛んでいる。
まるで鳥のようだ。
耳には風切り音がヒューと聴こえている。
夏でも肌寒く感じる。
装備も服装も大切なんです。
フライトスーツもカッコつけるわけでは無く、防寒対策には必需品です。
体重は重い方が安定して、機体が潰れにくいと言われています。
ハングライダーよりもスピードはかなり遅いが、原付と同じ位の30kmは出ている。
皆さんの想像だと、山の上から下に向かって降りて行くイメージかと思いますが、山頂から更に上に向かって浮かび上がって飛んで行くんですよ。
見ないことには信じられないでしょう。
めちゃんこ気持ちいい。
これまで経験してきた何物にも比べることなどできない感覚なんだ。
落ちることなんて想像することなんてない。
何処までも飛んでいける気がしていた。
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その時のフライト時間は3時間位であった。
寒くなって来たので、川原のランディング場に機体を向け飛んで行く。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/71994788/picture_pc_59b19bbbf0af8eb6e6c33acd48c65505.png?width=1200)
回転したり、ワザと機体を潰し復元の練習をして楽しんだ。
山肌から離れると上手くサーマルを拾わないと下降していく。
吹き流しを確認しながら徐々に高度を落としランディング。
足が地面に着くかいないかのタイミングで同時に左右のブレークコードを一杯引く。
すると機体が一瞬フワッと静止したようになりピタッと両足が着地する。
気分は最高!
練習を重ねフライト時間を稼ぎ、インストラクターの指示を受けずに自身の判断で飛ぶことが許さ れました。
当時、パイロット級という技能書をいただくことができました。
体験コースから始まり、一人で飛べるパイロット級の技能書もいただき卒業。
当時のスクー ルメンバーも同じようなタイミングで取得し個々のフライトしたい好きな場所を求めて羽ばたいて行きよりました。
私は毎週のように通い詰めた青垣のフライト基地も幾分通う日数が少なくなった。
サンデーフライヤーとしては近場でも触れていたくて、練習がてらに若杉高原おおやスキー場に行っていた。
続けていると慣れも出てきます。
そして、ある日のこと!
九死に一生を得る経験が待ち受けていました。
つづく!
【後編】〜九死に一生を得る〜
【本 編】
体験コースから始まった大空への挑戦!
P級技能証を手にした私は、自身の責任と意思を持って飛ぶことが許されました。
自然と遊ぶことは、自身の思いとタイミングが合わない事もしばしば。
天気次第、まさに風次第。
風が良くないとテイクオフ出来ない。
無理すると危険が伴う。
風が強すぎると、前に進まず後退し危険な状態になる。
たまの週末にしか来ないが、パラを広げるだけで一度も飛ばずに片付けて帰る事も何度もある。
朝早くから行くとカメラマン達が欲しがる雲海の光景を何度も目にする事が出来た。
当然フライトするには、雲海がなくならないと飛べない。
レースに出られる方、クロスカントリー種目で長距離、長時間フライトするためサポートを付けて挑戦される方も居られた。
私とオヤジの二人は、P級を取得してからも青垣フライト基地に回数は減ったが通っていた。
自然と対話をしながら風を読んで飛んで行く。
パラグライダーは山肌から離れずに向かい風を拾い、八の字を描くように飛ぶ。
高度を稼ぐと色々と遊べた。
山肌を離れる場合は、田畑の水張りされている所や水場を見つけてサーマル上昇気流を見つけ風を拾い飛び続ける。
青垣に行かない時は、練習場であった若杉高原おおやスキー場でサンデーフライヤーをしていた。
その日は、小さな子供達で賑わっていた。
風待ちで待機が続いていた。
来た!
ライザーを持って立ち上がる。
ダメだ。
また待機。
何度も繰り返す。
山裾では、子供達が飛ぶのを見守っているようである。
風が安定していない。
弱い風が止まったかと思うと強い風が時より吹く。
これなら少し飛んで降りるくらい出来ると判断した。
次の風でライズアップ。
走り出すと直ぐに舞い上がった。
先程より少し強い風が機体を後退させようとする。
このまま高度を上げると後ろに持っていかれそうなので、高度を下げテイクオフ地点に戻る。
ランディングせずに前に出た。
低空飛行で八の字を描き飛んでいたが風の強弱で翼が安定しない。
一旦降りよう。
高度10m、更に下げ5m程度、左手に小屋と一本松がある。
あっ、これは鬼門の場所!
練習時にも練習生が何度も堕ちているのを思い出したが時既に遅し。
あっはっぁ!!
風に巻かれた!!!
操作する間も無く、ゲレンデの斜面に体育座りした状態で両足が大地に食い込んだ。
むぅぐっ!
なんか変な音がした。
胸が熱くなる。
やっちまったなー。
意識はあった。
立ち上がろうとするが立てない。
すると声が聞こえた。
同期のオヤジの声だった。
『 大丈夫かー 』
私は無意識に 『 大丈夫、大丈夫 』
と声は出ないが右手を上げ応えた。
暫くしても動かない私を変に思ったオヤジが近づいて来た。
私は動けないし立てなかった。
手を貸してくれようとしたオヤジに更に誰かが声をかけて来た。
『動かさない方がいい救急車を呼びましょう』
落ち着いたその低音の声が耳に残る。
たまたま遊びに来られていた医療関係の方であった。
これは腰をやっていると思うので、むやみに動かさない方が良いと言う。
ビックラこいたオヤジは直様、119番!
ていへんだ!
救急車を一台寄越してくれないか!
そんなやり取りがあったであろう。
中々救急車が来ない!
30分、いや1時間はかかったであろうか長く感じた。
ウーゥーウーゥー! ピーポーピーポー!
なんだか騒がしくなっていく気配が感じられた。
意識が遠のいて行く中、オヤジにお願いをしたのだ。
『すまん、こんなことになって。 ちょっとええか。
サングラスのレンズの片方がないねん。 落ちた付近にないか探しといてくれへんか』
と言っていた。
オヤジは一言。
『 分かった 』 と言った。
ツーカーの仲であった。
ハワイで買った限定のオークリーのサングラスでスノーボードでも愛用しているものであった。
救急車に乗せられ質問責めにあうが、名前と住所くらいをお伝えしたのだろう。
あまり覚えていない。
オヤジは愛車で救急車の後を追ってついて来てくれていた。
八鹿病院に到着。
まず状況把握するためにレントゲンを撮る。
瀕死の私に話しかけて来た。
『着ておられる服を切ってもよろしいですか』
暫く考えた私は、
『切らずに脱がせてもらえませんか。 限定品でもう買えないヤツなんです』
今思えば、コイツこんな状況で何考えてんねんって思った事でしょう。
普通なら有無を言わずに切るところかと思いますが、取り敢えず聞くと言うマニュアルになっていたのでしょう。
普通なら切って下さいが、正解だったと思います。
ところが予想外のことを言われた看護師さんは優しく脱がしてくれました。
裸にしちゃ、いや〜ん。
先生がレントゲンの確認をされている時間が長く感じられた。
頭はボォーっとしているが意識はまだかろうじてあった。
身体は動かない。
今から手術かと思いきや、何かを身体に巻かれ更に何処かに搬送されようとしていた。
先程のレントゲン写真がストレッチャーの脇に置かれている。
レントゲンを確認された先生が脊髄圧迫骨折だけでなく、心臓出側の大動脈に亀裂があることが分かり、心臓外科のある豊岡病院への搬送を判断されたのだった。
オヤジは私の親に一大事を伝えるために既に車を走らせていた。
私が更に搬送されようとしていることなど知る由もなかった。
豊岡病院に着いた時、私は既に落ちていた。
気が付くと身体のあらゆる所に管が通されていた。
首、両手首、両足首、そう首と言われる所全てに!?
あっ、一つだけ付けられていないところがありました。
それは両乳首!
えへっ、チチクビ。
そこはいらんな。
ICUに放り込まれていた。
しかし、手術が行われた感じはなかった。
オヤジは、私の家族に伝えに行くとトンボ帰りで八鹿病院まで案内してくれていた。
しかし、そこには私の姿はなかった。
そこで更に豊岡病院に搬送されたことを伝えられた。
豊岡病院までオヤジも同行してくれた。
豊岡病院で私の症状が親に伝えられた。
今すぐには手術が出来ないこと。
心臓付近の大動脈が裂けているため、体力回復を待つ必要がある。
このままだと出血がいつまた起こるか分からない深刻な状況であった。
しかしながら、いつもの不摂生のお陰でドロついていた私の血が大動脈の裂け目を血糊で壁を作り応急処置を施していたのであった。
恐るべし緊急対応力!
大枚を叩いて飲み続けた効果が今、発揮された瞬間であった。
ICUで一人ぼっち。
身体には管が張り巡らされ、口にも呼吸器が差し込まれている。
痰が絡まり、息ができない。
死ぬかと思った。
と言うより、死にかけている。
会社では、もう出社してくることはないであろう説が流れていたようである。
当時の上司のみ状況確認と、お見舞いに来られた。
当時は、交代勤務であった。
皆に迷惑をかけていた。
私の姿を見られた上司は、皆に見せられる状態ではない。
見られたくないだろうと、私の気持ちも考慮された苦渋の判断をされたのであろう。
職場では見舞いには行かないよう伝えられたようであった。
後に千羽鶴が届けられた。
自然と涙が出た。
うむっ。
しかし、私には千人も知り合いはいない。
一体どちら様が私のために!
本当にありがたいことである。
ある日、オヤジから聞き付けた同期メンバー達が見舞いに来てくれた。
まだ手術していないため、興奮させると傷口が開くので顔を見る程度にして下さいとのお達しであったようでだが、友を見た瞬間に私の脈は鰻登りに!
欽ちゃん仮装大会のジャッジのように。
即、引き摺り出されました。
その後、奴らが戻ってくることはなかった。
強制退場されていたのである。
遠い所ワザワザ来てくれたのに申し訳ない。
後で私の元にオヤジにお願いしていたオークリーのサングラスにレンズが取り付けられ届けられた。
なんていいヤツなんだ。
別日に探しに行ってくれたのであろう。
感謝である。
遺言にならなくて良かった。
見つからなかったら、オヤジは目覚め悪い事になっていたことであろう。
体力が回復し手術を行うことに。
病院が遠いこともあり家近くの病院に代わることもできたが、豊岡病院は京大の心臓外科の先生でとても良いとのこと。
出頭医の先生もいつもはお年寄り相手なのか、是非とも手術させて下さいと笑顔のことでした。
手術当日は散髪もされ気合十分。
手術は予定時間を数時間も過ぎていた。
血が足りず、急遽その場におられるA型の方の血の確保。
先生方やお勤めされておられる方の血である。
しかし、輸血にはリスクがある。
献血直後の生血を輸血すると別人のように性格が変わってしまうこともあるらしい。
最終的に選択された方法は、自身の血を溶液で薄めて循環する方法であった。
リスクとしては、血が薄くなるため貧血状態になるが、輸血するより良いとのこと。
そして、10時間以上におよぶ大手術は終わった。
本当に薄くなったのは、血だけだったのけ。
毛っ!?
そう、私は生かされたのでした。
まだ、寿命ではない!
神様がそうつぶやいたように思う。
九死に一生を得た!
死んだ気でやってみろとか聞きますが、死んでもないのに死んだ気にはなれない。
死にかけたからよく分かる。
三途の川も見ていない。
死にかけても死んでないから、死んだ気でやってみるの意味が分からない。
何の話でっか。
私は、まだ生きている。
そう、私には、まだすべき事が残されている。
そう思うことにした。
他人には優しく、自身には厳しく。
今日出来ることは、今日の内にする。
そう思ったが本当にそんな事が今、出来ているのかな。
いつ死んでも悔いの残らないようにしておこうと思う。
今まで小さなことに悩んでいた事が馬鹿みたいに思えるってこともない。
やっぱり悩む事も多い。
普通に健康体であったならば、事故した現場か搬送中に出血多量で逝ってしまってたのであろう。
不健康でも良いこともある。
運もある。
背骨の圧迫骨折では、脊髄神経に触れ少なくとも半身不随で車椅子生活。
しかし、背骨の空間が他人より空間が広く脊髄神経に当たってなかった。
後遺症として、貴重な身長が2cm縮んだこと。
そして背骨のお尻の方の骨が他人より一つ二つ多くサルみたいであったこと。
実影響は、補強の背骨に仕込んであるチタンの棒がハワイ脱出時にセンサーに感知され出国が遅れそうになったこと。
心臓からの大動脈にはUSA製のロットNo、〇〇〇の人工血管が搭載されている。
人造人間キャシャーンといったところであろうか。
あの時、逝ってしまっていたら。
そう考えることは、よし子ちゃん。
生きていたらきっといい事があるはずなんですよ。
まだまだ、したい事も沢山あるしね。
たぶん逝く時は、呑んだくれて側溝に顔突っ込んで残念なことになってやしないか。
慣れというのは時には取り返しのつかないことをしでかしてしまうこともあります。
こんな事ぐらい大丈夫だろう。
自身では些細なことと行動した一瞬で大切なものや人を傷付けたり、突然無くしてしまうなともある。
ぽっかり胸に風穴を開けてしまうことになる。
悔いても後戻りすることは出来ない。
自身の弱い気持ちでしたことで、どのような結果が待ち受けているのか良く考えて行動しなければいけない。
生かされたこの命を大切にしないとね。
これからも人生の続きを、悔いのない毎日を楽しく過ごせたらいいなと思います。
これまでの良くも悪しきも思い出を背負って。
アディオス!
おしまい
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by まるまるの虫 カメさん
【あとがき】
見舞いに来てくださった上司、先輩、同期の友、その他沢山の方からの愛をいただきました。
本当に感謝です。
その甲斐あって、術後は声も出なかったのですが、今ではすっかり歌って踊れるまでに回復し通常生活を取り戻す事が出来ております。
これも私のリハビリ努力の賜物・・・。
いやいや皆さんの愛のお陰と感謝いたしております。
千羽鶴をいただいた時には、私もこれまでかと覚悟したものです。
千羽鶴をいただいて完治退院はほぼない!?
そんなことないか。
あっ、そうそう。
当時のパラグライダー装備一式まだございますので、ご入用の方はいらっしゃいませんでしょうか。
堕ちても生還できる縁起の良いパラグライダー欲しいですよね。
飾り物にも最高ですよ!
ではっ。
ごきげんよう!
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