オフィス風屋5周年

設立初年度は、ほぼ100%東京の仕事をしていた。その頃の肩書きは「プランナー」だったり「コーディネーター」だったり「エディター」だったりで、実際にそういう仕事が多かった。雑誌という仕事を学んだのも、コンテンツと広告の掛け合わせ方を学んだのも、書籍制作における出版社の進め方が印刷会社のソレとは違うことを学んだのもその1年間。今なら「もう少しこうしていれば」とか「あそこはこうすべきだった」など反省点も多々あるものの、とても貴重な1年間だったように思う。その1年目があるから今がある。

父よ!

2年目は、東京の仕事も若干残ってはいたものの、それ以外の仕事は棚上げにして、ほぼ1年間(ほぼ会社の決算年度間)地元の老舗マルカンデパートの閉店に伴う大食堂営業再開プロジェクトに関わった。寄付金付き写真集を作り、自分でもあちらこちらで手売りして歩いた。もちろんそこからの収入はほとんどないに等しく、営業的にはかなり厳しい年度だったが、今地元花巻のまちづくり、市街地活性化に関わっていられるのは、その1年で新たな若い人たちとのコミュニティが構築されたからだ。少ない東京の仕事の中では、急成長中の若手経営者によるベンチャー企業の仕事に携わったのも、知識、経験という意味では大きかった。

マルカン写真集

ツクルバ本

3年目はマルカンビル大食堂営業再開のドキュメンタリー書籍化や、超狭い範囲でのローカルにおける紙メディア創刊から始まった。今に続く仕事のベースが出来上がった年だった。それらは既存メディアに取り上げてもらい、また創刊したばかりの紙メディア継続のための営業に走り回った日々。地元自治体主宰のプロモーションwebサイトに関わり始めたのもこの年。若い人たちとのコミュニティもさらに拡大し、ようやく地元に橋頭堡ができつつあった。もちろん東京の出版社の仕事も若干ながら続けていて、いつしか肩書きは「書籍プロデューサー」「ディレクター」「エディター」に変わっていったように思う。まだまだ紙ベースのメディアに関わることが多かった。

マルカン

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エサレン:表1 2

まきまき

4年目のトピックスは何と言っても商業出版物を1から地元クリエイター達と作り上げたこと。すべて任せてくれた出版社に感謝するとともに、著者やカメラマン、デザイナーとみんなの力で全国発売の1冊を作らせてもらった経験は大きい。同時に自治体系の仕事において電子ブックも手がけるようになった。紙とは違う作り方に試行錯誤した経験は、これまた大きな勉強だった。自治体主宰のプロモーションwebサイトにもさらに大きく関わることとなり、さまざまなメディアが持つ特性と使い分けについて深く考えるきっかけとなった。後半からはなぜか音楽系の話にも首をつっこむこととなり、知ってるつもりだったその世界の奥深さに驚愕した。自分がやるべき仕事なのかを知るためにも体験してみるべく、おっかなびっくり足を踏み出した。

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ひと図鑑

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昨年の5年目。いつしか肩書きは「メディアプロデューサー」「エディター」「ライター」となり、地元紙メディアの発行を継続しつつ、自治体の電子ブック、webサイトにも関わりながら、ローカル系、ソーシャル系のニュースサイトへもぼちぼち原稿を書くようになっている。もちろん出版社への企画プレゼン、プロデュースは続け、今も継続中の仕事となっている。それとは別に、前年度から続いていた音楽系の仕事にかなりの時間を割くこととなり、その面白さと大変さ、怖さを垣間見た。自分的にこの仕事は今後どうすべきなのか考えることとなった。そこから派生した映画の仕事の方が自分の守備範囲にあっている気が今はしている。映画もメディアのひとつなので、これまでの仕事に延長線上で考えやすいからだ。それは今年度に引き続き持ち越してはいるが、コロナ禍で今後果たしてどうなるのか。

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さて6年目。メディア以外の仕事にも対応すべくクリエイターチーム有限責任事業組合machi R&Eを立ち上げたが、歴史上例を見ないクライシスに巻き込まれ、スタートは暗中模索。さっそくmachi R&Eで花巻市内の店舗支援となる「花巻みらいチケット」事業を始めたものの、オフィス風屋的には前年度から計画し、今年度形にする予定だった紙メディアや書籍の仕事がすべて無期限延期となり、映画の仕事も一時棚上げ。ここから先は待つしかない状況だ。もうひとつ、心に秘めていた大きなプロジェクトも様子見という感じ。水面下では少しずつ段取ってはいるものの、刻々と変わる状況を見ながらタイミングを測る・・・というのが正直なところだ。今年齢60歳を迎えるにあたって、人生の大きな転機ともなるべきチャレンジだったが、出鼻をくじかれている。

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私のこの5年間、グランドデザインを描くことなく、その時その時の状況や流れに乗って仕事をしてきたわけで、言ってみれば看板通り風まかせのようだが、自分なりの芯は持っているつもりだ。それはかつて若い頃メディアに携わる者として薫陶を受けた方からの「人と人、地域と地域、過去と未来の間の架け橋たるべし」ということ。「Media」の語源は「Middle」=「中間者」だ。何かをなそうという人のことを広く伝えプロモーションすること、プレーヤー同士をつなげること、そして地域と地域をつなげること、それが自分の仕事だと考えている。

以前勤務していた印刷会社で経営に携わっていた時から今自分の会社を経営するにに至るまで、最も大切なことは「売上」「利益」ではなく「理念」「志」であると学んできた。確かに今は厳しい状況で苦しい(いや、創業した5年前から余裕はない)。しかし、自分を騙してまで楽な道に走ることなく、「理念」や「志」を持ち続けることこそ、不器用であっても自分の道なのではないかと思っている。損ばかりしているかもしれない。それでも自分の仕事によって少しでも誰かの、どこかの役に立ってもらえれば本望だ。それがいつかどこかで自分に返ってくる。









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