わからない!がわかる勇気
よくわからないことがあると、わかりたい!と思うのが人間のようですね。だから、わからないことがあったら一生懸命調べたり考えたりしてわかろうとします。
で、なんとなく理解が深まった時に、わかった!と嬉しくなります。でも、実は、わかった!と思った次の瞬間には、またわからないことが出てくる、そういう経験はないでしょうか?人生ってそいうことの連続ではないかしらと思います。
私がアメリカから帰国して、大学院の臨床心理学のクラスでその成果を発表した時に、先生に言われたショッキングな一言があります。それは、「わかろうとしてはいけない」でした。アメリカ帰りの理系頭の私には、そのことの意味がよくわからなくて、あ〜私は臨床心理学は向いてないな〜と思ったことでした。臨床の方たちのお話は、理路整然じゃないんです、複雑怪奇で訳わからないのです。それを整理して「こういうことでしょうか」と聞いたら、「いや、違う」、「じゃあこういうこと?」「いや、そうでもない」みたいな。理系の方はこういう話になったら大概イラっときますよね?しかも、臨床系の人は原稿の締め切りを守らない、約束の時間に遅れるが当たり前だったりします。今は違うかもですが、昔はそれが当たり前だったので、私のような単純な人間には、おつきあいに忍耐が必要でした。風土というものかもしれません。
しかし年月を経て考えてみたら、「わかろうとしてはいけない」の意味が少しだけ見えてきました。わかろうとする時、無意識的に自分の価値観や自分の経験から判断していることが多いからではないでしょうか?そして人間は一人一人皆異なった感性や考え方を持っていて、同じ言葉を使っていてもどれだけの隔たりがあるか、ニュアンスが違っているかを痛感させられることが多いです。そしていきなりですが、フィンランドのオープンダイアログ の基本的理念が、他者性にあることを思い出しました。つまり、人は他者を理解することなんてできないという大前提です。
よく考えてみたら、理解できていないのに、わかったということは誠実ではないし、あまり考えてないということの現れかもしれません。ですから、「わからない」ということこそ、真実の言葉です。わからないと言われて寂しいかもしれないけれど、でも、そこにあるのは、誠実に、とことん理解しようと寄り添い抜いた態度だということです。理解できない人間同士が寄り添って理解しようとするのは、美しい安らぎですが、そこには、実は、決して理解し合えないという厳粛な事実があります。それを思い出せば、誰もわかってくれない!と嘆く必要はないかもしれません。
Tuuliが何しようとしているのかわからない?
はい、誠実におっしゃってくださってありがとうございます!
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