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(13) 「どこから」ではなく「どこへ」 ー 今を生きる part2

上島竜兵さんが逝った。

「押すなよ!押すなよ!」のボケで熱湯風呂に押されて落ちる唯一無二の、切ない痛みを感じる芸を見せてくれた上島さんだ。状況から自殺とみられている。本当に心が痛む。

「今にも起きてくるんじゃないか?血色も良く、可愛らしい顔で眠っている」弔問に訪れた仲間の皆が、そう感じたと言う。「繊細で気遣いの人だった」一様に仲間の皆が口を揃えてそう言う。皆から愛され、可愛がられた人だったと・・・。

”思うようにならない現状”が、彼の前に立ちはだかったのだろう。”感情”は”悲”だったに違いない。人は誰しも、ここの今に足を置き生きているつもりでも、過去の記憶や強い思いに押されて生きてしまうしかない。はっきりと自覚していないからか、それさえにも気づいていない無意識に、ということがほとんどである。

実は私たちは”感情”を、ある目的の為につかうのであって、”感情”が私たちを背後から押して”支配”していると考えてはいない。だからなのか、湧き上がる”感情”を大切にする、という意味でもなく、押されて”感情”のままに生きてしまう弱さがある。例えば、相手をある方向に動かそう、こちらの言うことを聞かせよう、という”目的”の為に”感情”を使うのであり、怒り”を使うと相手が言うことを聞くだろう、と考えて”怒り”をその目的の為に創り出すのである。”悲しみ”という”感情”は相手から同情や関心を引く為に造り出しているのだ。自覚はない。無意識でそうしてしまうのである。

”感情”とはこのように私たちの”心の中”にあるのではなく、私たちと相手・事柄との”間”にあるのだ。それを残念ながら私たちは気づかない。そんな風に無意識で自覚がないこともあり、”感情”は強く背後から私たちを強迫するかのように迫って来る。感情”に押されたままに生きてしまうのである。

色々な面でただただ感心してしまう先輩が一人いる。何故かいつお会いしても生き生きしているのだ。その先輩が六十歳を迎えた年、経営していたアパレルの会社をたたんで山に引っ込んだ。そのアパレルブランドは有名で、会社としても軌道に乗っている最中であったのにである。犬を飼い、畑で野菜を作り、あらゆる山野草を育て、薪を割り、野鳥に餌付けまでする。野鳥は彼の手から餌を貰い、彼の散歩についてくるまでだ。冬はスキーのインストラクターであり、夏場の空いた時間には陶芸に勤しんでいる。死と隣り合わせの大病を何度もし、長期の入院もして来たのに、退院と同時に待ってましたとばかりに今迄通りの生活をする。
「あんたはスーパーマンか?」
と、私は横やりを入れる。
「これ食べなよ」
と、彼は畑でレタスを切ってくれる。

彼にはきっと”目的””目標”があるのだ。それは財産を増やすとか、お金のことなどでは決してない。
「人生は楽しんでなんぼだ」
と、聞こえて来そうである。
それが証拠に、彼の毎日やること全てが楽しそうなのだ。ポジティブな考え以外聞いたことがない。彼の背後から迫って来るマイナスな”感情”はないと感じる。過去の”感情”とは完全にボーダーラインで区分けされているに違いなく、ここの今に足を置き、先に”目的””目標”があり、人生を謳歌すること以外頭にはないと感じられる。それが何とも上等である。


若くして逝った上島竜兵さん、渡辺裕之さんの死を目の当たりにして、私は悲しみと同時に自身の”生き方”が問われていると、他人事のように思えないのである。上島さんは慕われ愛され、皆から可愛がられた。渡辺さんのストイックで凛とした生きざまは、後輩たちから憧れられ、慕われた。お二人共かけがえのない芸人さんであり、役者さんであった。そのことが”生きる目当て”になり得なかったことが悔やまれる。

私たちは本当に脆く壊れやすい存在である。また、コロナ騒動が大きく影を落としていることは確かであるのだが・・・。しかし、これも含めて私たちはこの脆弱な存在であるが故、足場を固め、過去・今の”感情”に圧倒されない為に・・・私たちは”目的”の為の”感情”を使うのであることを忘れないで生きて行きたいのだ。私たちにとって、「どこから」は大切な過去であり、自身の来た道であるには違いないのだが、その過去の”感情”を”今”に持ち込まないで、ボーダーラインを引き、「ここの今」に生きて欲しい。そして、”今”に生きるその”感情”は「目的」その為に用意して欲しいと切に願う。

私は「どこへ」(未来)を大切に生きていたい。そう固く誓った。

ありがとうございました。合掌。


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