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(61) 承認欲求 ー part2 こじれる

人に分かってもらい、そのレスポンスで自分を確認する。私たちは、どうもこれ以外自分を確認する手段を持とうとしない。”他力”なのだ。

よく分かる。自分の独りよがりで自分を認めたとしても、なかなか満足できるものではないから、「人から認められて、なんぼ」と”他力”になるのだろう。この思いが強すぎると、問題が起きることになることを、私は心配する。過剰に承認欲求が強いからか、自分の力以上に無理して頑張り過ぎる人がいる。実に健気である。本当に真面目に人生を積極的に生きている。頭が下がる思いでいっぱいになる。

タイプとして、こんな人が無意識で自分相手に”こじれる罠”を仕掛けてしまうのだ。前提として、無理して頑張り過ぎている訳だから、当然その反応として同僚・家族・周囲から同情や協力があるべきだと考えているはずだ。それを見せつけ、反応を貰うために「私が無理してこんなに頑張っている」と、アピールする。しかし、現実には”協力”はおろか”労い”の言葉もない。
がっかりする。悲しくなる。惨めになる。頑張っている自分が何なんだと思い始める。それが引き金となり、周りに対する批判の気持ちを、「どんなに私が無理をしているか」という形で訴えることとなる。ただただ無理して頑張って来たのだから、すでに肩こり・頭痛・胃痛・便秘など身体症状は必ずあるはずなのだ。気持ちを訴える頃には、必ずそんな病を”憎悪”させることになる。これはゲーム(ドラマ的交流)と呼ばれる”罠”なのだ。このゲームの目的は「相手に強い罪悪感を起こさせ、もっと何とかしなければならない」という気持ちにさせることにある。

しかし、実際に相手が苦労して今までにない同情や協力をしたとしても、結局、果てしのない悪循環を生み、まるで当初望んだ効果を得られないばかりか、残るものは双方が不快で終わり、”他者否定・自己否定”のしこりを残すことになる。

これがこのゲームの結末である。”こじれる”で終わり、また、時間を置き始まるのである。だとするなら、この訴え方は決して正解であるとは思えないのだ。なぜ、こんな不毛な「訴え方」を、こじれてまでしてしまうのだろうか。

誰にとっても、当然努力した分のストロークは欲しいものである。しかし、人は労いや協力するようなストロークを送ることはほとんどと言っていいほどないのだ。人は自分のことで精一杯なのである。

プラスのストロークがもらえないと人は、マイナスでもいいからストロークをもらう行動に出てしまうのだ。それがゲーム(ドラマ的交流)なのである。仕掛けて、双方が不快で終わり、”他者否定・自己否定”を証明し、しこりを残す。そして一度で満足いかないから、際限なくそれを繰り返すということになり、悲しいのだ。
「私は人を信用していない」
「私は私を肯定できない」
このゲームは、自身の”基本的構え”を証明しているということに他ならない。

先述のような不毛な求め方ではなく、遠慮なく堂々と、「私を褒めろ、こんなに頑張っているんだから」と、直球を投げたらいいのだ。本来望んでいた承認がもらえるのなら、なりふり構わず求めたらいいのだ。誰しも褒められたい。たくさんのプラスのストロークが欲しい。人間だから当然であり、正当である。しかし、過ぎることが危ないのだ。過剰適応を生み、自身への抑圧を生み、大きな無理を強いるのだ。健康のバランスを大きく崩すことになる。何よりも”満たされない悲しさ”が良くないのだ。

半世紀も前の話で恐縮だが、私の大学の卒業論文のテーマは「心中による自死」だった。近松門左衛門の『曽根崎心中』『心中天の網島』から論じるなどと大それた試みをした。卒業論文というのは、書き進める途中、担当教授にご指導いただく「めんどくささ」がある。ある日、教授に呼び出された。

「君の論文の参考にと思い、歌舞伎のチケットを用意しました。近松門左衛門の心中物です。私と一緒に行きましょう」
「めんどくさ!」
と、つい口から出てしまった。
相手が誰であろうが、思ったことは遠慮しないで言うと勝手に決めているからではあるが、間違いなく言い過ぎだった。

「まぁまぁ、ジャズのライブ好きの君には酷ですね。ですが、この心中物を観ておかないと論文は進みませんよ」
「はぁ・・・では、お供します」
「ところで関係ない話ですが、君の大学生活での言動を見ていますと、腹をくくって何かを決めているようですが、無理していませんよね?」
「覚悟ってことですか?」
「傾く(かぶく)と言うかですね、前田慶次という武将を知っていますか?あの秀吉から傾奇御免状を与えられたと言われていますが・・・」
「前田慶次ですね。確かに憧れています」
「君はその傾奇者(かぶきもの)なんですね。決して褒められませんけど・・・」
こんな突っ込みをされた。

決して”承認”を求めない。”承認”を求めることがどんなにかその人を追い詰めるのか知っているから、そのために決意したことがある。どんなに人に疎まれようが、貶されようが、その評価は丁寧にご辞退する。どんなに人に褒められ、称賛されても丁寧にご辞退する。「私自身の評価は、この私がする」と決めているからなのだ。”他力”は辛いだけだから、決して求めない。

この決意をして以来、私は決して”承認”されるために”何か”をしないことを貫いている。自分に無理をすることがないのだ。しかし、私は目の前の誰かに対して、人以上に労いの言葉・お手伝い・サポートをすることも同じように決めている。その人と自分を活かしたいからだ。


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