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(18) 由美 ー 素顔

改札の大時計に目をやった由美は、少々時間があるなと思った。
確かに六時の待ち合わせまでには時間があった。この混雑の中、立って待っているわけにもいかず、お茶でも飲むつもりで由美は駅ビルから外に出た。

「さてと、コーヒーの美味しい店はどっちに歩けばいいのかな」
そう呟くと公園の方へ歩き始めた。知っているわけではなかったが、中央線の各駅辺りに必ずコーヒーの美味しい店があった。公園の入口に面して、その喫茶店はあった。近頃では珍しい木製の扉に、直接店名の「マグカップ」と彫ってあり、独特の雰囲気の店構えであった。扉を引くと、カランカランとドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
店主らしき女性がCDでもセットしていたのか、振り返りながらの挨拶であった。軽く会釈をした由美が、窓際に座ろうとすると、
「カウンターはいかがですか?よろしかったらこちらへどうぞ」
由美は勧められたままにカウンター席に腰を下ろした。
「お客様、初めてですよね?この店」
女店主は丁寧な言葉で由美に尋ねた。
「ええ、待ち合わせに少し時間があったものですから・・・。お店の前に立った時、何か惹かれるものがあって・・・」
突然の店主からの親しみ深い問いかけに、少々戸惑いながらも由美は正直に答えた。
「まぁ、それはありがとうございます。コーヒーでよろしいでしょうか?」
由美は、この春からMデパートの外商部に配属になった。言ってみれば、社会人一年生であった。この四、五年、女子大生にとっては就職が難しく、同級生の中には内定を貰いながらも、暮れあたりには内定取り消しのあった者もいたりして、由美は運の良い方であった。出版社を第一希望としていた由美であったが、結局、内定を貰えたのはMデパートのみであった。今日は、級友でもあった田中広美と久しぶりの約束であった。広美はS出版社に入社した優等生である。由美とは同郷で大学入学当時から仲が良かった。久しぶりに広美に会えるということで、由美は顧客回りを早めに済ませ、懐かしい中野へ出掛けて来たのであった。

店内は冷房が掛かっているわけでもないのに、ひんやりとしていた。壁がレンガを組んだものであるからかも知れない、と由美は思った。目が慣れて来たからだろうか、思っていたよりも店内は明るく感じられた。大きなマグカップで出されたコーヒーは、普通の二倍はあると思われた。由美はカウンターに座ってしまったことを少々後悔した。女店主と二人だけの店内は緊張した雰囲気で、今、何かを言わなければ・・・という思いでいっぱいだった。誰か別のお客さんが一人でも来て欲しいと、由美は願った。女店主は気を利かせたのか、カウンター近くの椅子に腰掛け、アンティークなスタンドの明かりの傍で本を読み始めていた。由美は気が楽になったのか、木製の椅子に深く座り直すと、深呼吸を一つした。

突然、
「北海道へ行かれたこと、ありますか?」
女店主は由美に尋ねた。
「ええ、大学三年の夏、根室・釧路・十勝・日高と周りましたけど・・・」
また由美は正直に答えた。女店主は、椅子から立ち上がるとカウンターの中へ入り、由美の正面に立つと、
「本土の方々は北海道を誤解なさっています。まぁ、もちろん冬の北海道は簡単に行ける所ではありませんが、一番北海道らしいのはやはり冬です」
静かな口調で話し始めた。
「雪は深いのですか?」
由美は素人っぽい質問をした自分に気づき照れた表情をした。
「地域によって積雪量は随分と違います。私は留萌出身ですが、それはそれは厳しい地域です。冬場になると、四ヶ月ほど海岸線道路は通行が出来ません。船を使ったりすることになります」
「そんなに大変なんですね。留萌、何か優しい言葉の響きですけど、それほどまでに厳しい自然か・・・今でも・・・」
「私はその留萌を逃げ出した一人なんですが、何もなくて、ただ厳しい冬があって・・・。当たり前ですけど、毎年必ず冬が来ます。何か、希望が持てなかったんです」

照明のせいなのか、それとも由美の錯覚なのだろうか、女店主の眼が涙で光っているかに見えた。由美は咄嗟に、間をあけてはいけないと思い、
「希望が持てないって・・・どういうことですか?」
「人がいて、家が立ち並んでいて、地下鉄が走っていて、デパートがあり、車で道路が渋滞しているのに憧れました。子供だったんですよ」
「私も岩手から同じような動機で上京しましたから、そのお気持ちよくわかります」
何故か由美はフォローしたいと思った。
「東京へ来たら、何か・・・そう、何か変わる、そう思っていました。そう思おうとしていただけかも知れない・・・」
由美は女店主の素顔を見た気がした。今日、初対面の客である自分に、意味ありげな身上話をする女店主を不思議な思いで由美は見つめた。どこまでわかってもらえるかは別問題として・・・人は誰しも素顔を見せて心ゆくまで内面を話してみたいのだろうと、由美は考えていた。

今、目の前にいる女店主もやり切れない心の内を通り過ぎていく一瞬の客である自分に話したかったのだろうと思うと、熱いものが込み上げてくる複雑な気持ちになった。今となっては、誰か別の客が入って来ては困る思いがして、由美はドアの方を振り返った。初夏を思わせる日差しが大きめの窓から差し込み、店の半分を照らしていた。木製のドアの隙間からは、一本の光が床の絨毯に力強い直線を描いていた。由美にとっては、今、この場所に偶然いることが不思議に思えたが、何だかとても貴重な時間に感じられるのであった。

「もしかして、留萌に帰ろうと・・・?」
由美に確信があったわけではなかったが、何となくそんな気がするのを正直に尋ねた。
「あなた鋭いですね。私は、あなたがドアを開けてお入りになった時、何か強く感じるものがあったんです・・・。この方を最後のお客様としてお迎えしようと咄嗟に思いました。私、やっと決心が出来ました。あなたのおかげです」
由美は返す言葉に困った。そして今、どうすればいいのかも同時に困った。

「留萌はこれから短い夏です。これで素顔に戻れるかも知れない・・・」「きっと、何かが始まりますね」
由美はそう確信して正直に告げた。


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