(103) 人間関係"2" ー 二つの視点
すべての悩みは「人間関係の問題に帰結する」
アドラー心理学の根底に流れている概念である。
少しオーバーに思えるかもしれないが、考えてもみれば人間はその本質において”他者”の存在を前提としている。何を成すにしても”他者”から切り離して生きることは出来ないのだから、アドラー博士の言うように、悩みのほとんどは「人間関係」に関連していると思われる。
”人とどう結ぶか?”
これが人生の中で一番手が掛かって面倒だ。人は長年「その人」で生きて来た。その人の価値観・ものの見方・感じ方は「その人」流の癖になり、凝り固まっているはずである。そう言う「私」もそうなのだ。そんな二人・三人が向き合えば、理解し共感できる場合ばかりではない筈だ。時にぶつかり合い、積み上げてきた関係さえも一瞬で崩れることもあるのだ。
「私は私である」が鋼のように強度と靱性が高ければ高いだけ”他者”に向ける主張は強力となり、”他者”とぶつかることも多くなる。「私は私である」との主張は貴く、人としてなくてはならないものでもあるから、向き合い方が本当に難しいものとなる。
ミソサザイと呼ばれる小鳥は、山の谷あいのうす暗い森で生きている。地味な小鳥だ。スズメよりひと回り小さくて日本で最も小さな鳥のひとつだ。からだに似合わない大声でうたい続けることで有名でもある。
私は、何故か自分でもよく分からないのだが、この小鳥が好きである。十センチほどの小ささが可愛いのと、控えめなのが好きな理由なのかも知れないと思ったりする。私は”控えめ”には生きていないから、そんな存在に憧れているのだと思う。
山小屋に小鳥の餌場を作った。
器にひまわりの種を置くだけのことだが・・・。私が種を置くと、どこからともなく小鳥たちがやって来て、周辺の木の枝に停まる。餌場の様子を伺い、大きな鳥たちからやって来る。大きいのは、二つ三つその場で食べる。ミソサザイは一番小さいから、木の枝でずっと待っている。空いた瞬間やって来て、一粒くわえると近くの枝へ避難して、あたりを見回して、ゆっくり食べる。もう一粒取りに来るのは、ずっと後になる。そんなミソサザイが私は好きだ。
森の中では一番弱者だろう。
大きな鳥には負けることをよく知っている。
しかし、決して卑屈ではない。
間違いなく森の中で一番大きな声で鳴くからだ。よせばいいのに「私はここにいる」とばかりの”自己主張”をする。あんなに小さいのに小鳥の研究者の方々からは、「森の王様」と呼ばれている。きっとミソサザイは”二つの視点”を備えているに違いない。「私自身の視点」とメジロ・シジュウカラ・コゲラ・ヤマゲラのような「大きな鳥たちの視点」とを。そうでなければ、この森で”生きていけない”ことをよく知っている。
私は考え込んでしまう。
「心理臨床」とはこうあるべきだ。「福祉」とはこうであり、「福祉行政」はこうでなければならない。「教育者」たるものこうあるべきだ。「子どもの視点」に立たなければ養育は十分行き届かない。などと、議論を吹っ掛け喧嘩でもするかのように叫び続けた半世紀だった。ミソサザイの前で小さくなるしかない。
この森に来て、ミソサザイと出会い、何枚かの写真を撮り、生き方を知り・・・私の肩の荷が下りた。「闘うな」がそれである。”二つの視点”を持て、もそれである。「私がこうであるのと同様、「あの人はああである」なのだ。”人”が違うのだ。決して「私のよう」ではない。その人にはその人の立場があり事情があるはずなのだ。ミソサザイと出会って、かれこれ二十年程になる。私の「心理臨床」は大きく変わった。”共感”というものが実感として理解でき始めた。まだまだ本物ではないこともわかった。”貢献”するということが重荷ではなくなった。”利他の心”を身につけたいと強く思えるようなスタート地点に立てた。
私の人生は、それほど時間は無くなっている。残された時間はわずかだが、肩に荷が軽くなった分、私はまだまだ”学び””歩き”続ける。