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(42) 沙織 ー 約束

渋谷と言えば、ハチ公前というのが待ち合わせ場所だった学生時代を、沙織は思い出していた。今でこそ、何でこんな場所をと、思うのだが、上京したばかりの頃は、それで精一杯だった。そう考えれば、沙織にとっては懐かしい場所と言うことになる。

「遅いな。私だって遅れると思って急いだのに、比呂子、また遅刻か」
不満そうな様子で、沙織は時計を見た。約束の7時はとうに過ぎていて、長針は35分を指そうとしている。比呂子からだな、と思う携帯の着信に、沙織は少々腹立たしかった。
「ごめん、ごめん。電話したかったんだけど会議が全然終わらなくて。お詫びに夕食ご馳走するからね。これからすぐ出るから、8時半ラ・セーヌで待ってて、いいね沙織」
一方的にしゃべりまくる比呂子に圧倒されたのか、沙織はひと言も言えなかった。
「まあ、会議なら仕方ないか。あれって無駄だと思いながら、つい長くなることあるもんね」
自らを納得させて歩き出した沙織に、
「今、何時になりますか?」
汚れたボストンバックと大きな紙袋を持ち、身なりはこの寒さを一層感じさせるものでしかなく、一見してホームレスと分かった。沙織は驚きを隠しきれないまま、
「7時40分になります」
と、答えたものの、何かやりきれない思いに突き動かされ、
「あ・・・お茶でもいかがですか?」
咄嗟につい口から出てしまった。

バロック音楽の流れる「珈琲茶房」は、沙織の行きつけの店であり、何よりも安心出来る場所であった。緊張のほぐれないまま、沙織とその老人は隅の席に無言のまま向き合って座っていた。運ばれたコーヒーを、大切なものでも包むように両手に持ち、一口すすると、その老人は、
「通りすがりの私に、こんなに親切にして頂いて本当に有難いことです。こんな立派な店でコーヒーが飲めるなんて夢のようです。ところでお嬢さん、何で私のような者にコーヒーを・・・」
そう言われても、沙織自身どうしてあんな言葉が咄嗟に出てしまったのか、わからなかった。普段なら、決してこんな事態にはならないだろうことだけは分かっているのだが・・・。
「失礼な言い方で申し訳ありませんけど、私にもよく分からないのです・・・。私、申し遅れましたけど、高木沙織と言います。代々木の貿易会社に勤めて5年になります。」
少し緊張がほぐれたのか、いつもの沙織らしく明るい調子で、簡単な自己紹介をしてみせた。老人はすまなそうな表情をして、
「それはご丁寧に・・・。私は竹内順造と申し、地方の出身です。65歳になりますが、お恥ずかしいことですが、こんな生活を始めて十五年ほどになります」
65歳と言われて、沙織は驚いた。とても60代とは思えない老けて見えるその顔に、15年ものホームレス生活の哀しさを見た気がした。通りかかったウェイトレスに、
「コーヒーもう一杯と、レアチーズケーキをつけてください」
返す言葉に困った沙織の、今出来る精一杯の返事であった。
「いえいえ、もう私なら結構ですので、気をお遣いにならないでください」
「竹内さん、いいんですよ。心配なさらないで。私、美味しそうにコーヒー飲まれるのが嬉しいんですから」
「申し訳ありません、私のような者に・・・」
運ばれたレアチーズケーキから、目を逸らした老人は、テーブルの上の一点を見つめたまま、小声で話し始めた。
「私はその昔、岩手で小さな牧場を経営しておりました。酪農がまだ良かった時代でしたので、一生懸命やればそれなりの生活は出来ていました。ある日、私の不注意から牛舎で火事を出しまして、一夜にして全財産を失くしました。家族に怪我がなかったのが、せめてもの幸いでした。それで抱えた借金は、並大抵ではない額でしたので、自己破産申告するしか方法はありませんでした。妻と二人の子供は、妻の実家で生活しております。それ以外に道はありませんでした」
涙ながらの竹内老人の身上話に、沙織は胸が痛む思いがした。視線をどこに置き、今、老人に何を言えばいいのか、沙織は身を固くする以外になかった。比呂子との約束の8時半が迫っていたが、この場を立ち去ることも出来ず、かと言って、比呂子を待たすわけにもいかない、と、沙織は思い、言い辛い様子で、
「竹内さん、この後約束があるんですけど、遅れる事電話して来ますから、少し待っててください」
「いえいえ、もう十分ですから、こんなにして頂いた上、貴重なお時間を頂いて申し訳ありません。すぐお向かいください」
「もう少しお話をお聞きしたいし、決して無理しているわけでもありませんから・・・」
沙織はそう老人に言い残すと、席を外し、携帯から比呂子へ約束の時間に遅れる旨のメッセージを送った。
「ごめんなさい。お待たせして・・・」
軽く会釈をした沙織は、腰を下ろしながら、
「竹内さん、一番お辛いことは何でしょう?」
聞いたところで、何の助けにもならないと思いながらも、そう聞くしか考えが及ばなかった。竹内老人は考え込む表情をして、少しの間、壁の照明をじっと見つめていた。
「ひとりであることも、家族に苦労をかけていることも、確かに辛いことですが、これは仕方ないことだと整理は出来ています。未だに決して整理がつかず、辛い思いがするのは、今も含めた自分の人生を許せないことです」
老人の目から、大粒の涙が流れた。
沙織は、問い掛けたことを後悔したが、今さらどうしようもなく、せめて雰囲気だけでも変えたいと思った。
「誰にしたところで、納得して生きているわけではないですもんね。私も後悔の連続です。でも、私は私ですから、こうしか生きられないから・・・」
声が詰まり、今にも泣きだしそうなのを堪えながら、こう言うだけが精一杯だった。その時、沙織の携帯が鳴った。比呂子からの着信であったが、沙織は救われた気持ちであった。席を外し、電話で比呂子に事情を話し、戻った沙織は、
「竹内さん、友人が待っていますのでこれで失礼します。何かお別れし難くて、私の勝手ですが、もし竹内さんさえよろしかったら、今週の土曜日お昼ご一緒したいんですけど、1時にハチ公前でお待ちします」
レジへ向かおうとした沙織であったが、何か言い忘れた気がして振り返ると、
「竹内さん、約束ですよ。必ずね」
沙織は、比呂子の待つラ・セーヌへ急ぎながら、過ごした不思議な時を思い出していた。私は、どうしようとしたのか。咄嗟に出てしまった「お茶でも・・・」が、何であったのかを考えようとしていた。正月気分の明けきらない渋谷の街は、着飾った若者たちで、歩道も思うように歩けない有様だった。

「もしかしたら、竹内さんは私との約束に来ないつもりかも知れない。私、負担を掛けたかも知れない」
ふと、そう思うと、沙織はやりきれない思いでいっぱいになった。

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