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(89) カウンセリング・マインド

”心理”を生業にしようとすると、必ずどこかで「カウンセリング・マインド」というものを”学ばされる”こととなる。”学ばされる”と書いたのは、なるほどとは思うのだが、実践することの難しさを痛感するからだ。知らない方が良かったとさえ思う。

「あなたを尊重する」
「あなたをもっと知りたい」
「あなたから学ぶ」

これが「カウンセリング・マインド」と呼ばれる”心の置き方”である。
確かにその通り、なるほどである。こうでなければ、カウンセリングで人の援助はできないに違いない。この”覚悟”をして、その道を求めていくが、人生の上で、誰にとっても一番難しいとされるこの三つが課題であることは、並大抵のことではないぞと思う。私が一番苦しかったのは、このマインドを修得できないということだった。”学んだ”ことは確かなのだが、心の底からそれに”共感”できたとしても、実践できるかは別物なのだ。苦しいと感じるとしたら、決してそうはできるものではない。

考えてもみれば、何故カウンセリングなどという特別な人間関係による援助が必要となったのだろうか?私たちの日常の人と人との関係性が希薄になり、その上ストレス社会化して、普通に生きることも難しい、「不安の時代」なのだろう。昔は情に支えられ、コミュニティーでの助け合いが普通にあった。今はお互いに自分のことで精一杯なのかも知れないし、コミュニティーが”力”そのものを失した。

そんな時代だから、カウンセリングが必要となったのだろう。その特別な関係性の場での支援を生業としている以上、何がなんでも「カウンセリング・マインド」の姿勢を学び、実践しない訳にはいかない。

上杉謙信という武将に習った。
「武功」もさることながら、「義」に厚い人物で知られており、越後国など北陸地方を支配した戦国時代の武将である。謙信の人付き合いの心構えに”凄さ”がうかがわれる。

「心に欲なき時は、義理を行う」
「心に私なき時は、疑うことなし」
「心に驕りなき時は、人を教う」

謙信が、心構えとしたことだと聞く。真に”哲学”であり、”心理学”の基本なのだ。頭が下がる。学ばねばと強く思う。謙信の心構えはこうだ。
「貪欲な気持ちがない時、誰しも思いやりが持てる」
「自分の利益ばかり考えることがない時、人を疑う気持ちは起きない」
「自惚れ慢心がないなら、人の真価を認め合える」
と、言うものだ。

謙信は物心ついた時から実父である長尾為景によって寺に預けられ、武士ではなく名僧になる教育を受けたと聞く。なるほど、さすがである。キーとなるワードは、「貪欲」「自分の利益」「自惚れ慢心」ということである。これらに流されていたのでは、「思いやり」「信じる」「認める」なんて境地にはたどり着けないということになる。

ママたちが公園の砂場で、チビッ子たちに遊びの中で重要な躾をされているのを目にする。遊具で遊ぼうとする時もそうだ。自分勝手をしない。自分の番がくるのを待たせる。友達のことを考え自分を出し過ぎない。これら全て謙信の心構えそのものだ。「思いやり」「信じる」「認める」ということだ。私たちは、教育を受けてきたからか、無意識でそれを知っているからなのか、それをチビッ子たちに伝えようとしている。「カウンセリング・マインド」そのものだ。とても良いことだと思う。

駄菓子屋に寄ることが多くなった。ちょっと生活圏内を外れているが、苦ではない。孫娘とチビ坊たちがお菓子を喜ぶからだ。切らさないように気を配っている。姉の孫娘はチョコの袋を開け、弟のチビ坊に一つあげ、自分は二つ食べる。チビ坊を「認め」「思いやって」いる。チビ坊が粒ラムネの袋を開けろと持ってくる。開けてやりながら
「じいちゃんにも一つちょうだい」
と、言ってみる。
「イヤ」
と、言いながら、自分の口に三粒入れながら、一粒だけ私にくれる。
「ありがとう」
と、言うと、もう一粒くれる。
これらが、目の前の「あなたを活かす」ことであり、”利他の心”そのものなのだ。そのことが自身そのものを活かす心でもある。チビッ子たちにも、そのままどんな時代になろうとも大きくなるまで持ち続けて欲しいと、願っている。

「カウンセリング・マインド」は、何もカウンセラーだけに課されたものなのではなく、私たちみんなの課題なのだ。


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