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フラッシュバックで思い出した6歳の頃の恐怖

フラッシュバック。

それは突然やって来る。


暑い夏の朝だったのを覚えている。

なぜならバスの外の風景は日差しが強くギラギラしていてたからだ。

当時、私は幼稚園の年長さんでバス登園をしていた。

バスの中は数人の園児がいただろうか・・・。

ハッキリと覚えていないがおそらく園児たちは、はしゃいだりお喋りをしていたのだろう。

でも私はいつも一人でバスの窓際に座り、外の流れる景色をじっと見ていた。


その日バスはノロノロと街中を進んでいた。

近くに商店街があったせいか人や自転車が多くてバスは速度を落とすからだ。

そして信号が赤だったからか、交通量が多かったからなのか分からないが、とうとうバスは止まってしまった。

そのバスのすぐ横をセーラー服を着た女子中学生か女子高校が颯爽と自転車で駆け抜けた。


たったそれだけの出来事だった。

なのにこの一瞬を52歳になる今まで何度思い出した事だろう。

なぜなら私はその時、恐怖を感じたからだ。

自分の前へ広がる、これからのとてつもなく長い時間を感じてしまったからだ。


私はまだ6つだった。

私にとって幼稚園へ行くのは楽しくも何ともなかった。

行かなければいけない場所だった。

私は幼稚園で誰とも口を聞かず、誰とも遊ばず登園してから帰るまで、ただ一人で時間が過ぎるのを辛抱して待っていた。

辛抱すれば時間がきて必ず家へ帰れる。

そうでないとバスで来るような距離を一人で帰るのは不可能だ。

だから私にとって時間という概念は辛抱して消費するものだった。


家に居る時以外は全て私にとって苦痛に満ちた世界だったのだ。

外の世界は恐い。

でも子供心にも親を困らせてはいけないと察してもいた。

私は物心つく頃から自分の気持ちを後ろへ押しやって大人が望む事を優先していたから幼稚園へ行きたくないとは言わなかった。

そうやって自分の気持ちを隠して自分を守っていた所がある。

正面切って行きたくないと言って親と衝突する勇気も無かったから、言う前に諦めてしまって自分が傷つくのを避けていた。

私は幼稚園で園児たちが庭で遊ぶのを直立の姿勢でぼんやり見ている子供だった。

例えるなら私は石のようだった。


そんな毎日を送っていた私の目にバスの横を真っ直ぐ正面を見つめ力強くペダルを漕いで行く女子学生は凛々しかった。

左右に結んだ髪やスカートの裾が風になびくのを気にしないで一心に進んでいるように見えた。


私はそんな風にはなれない。

というか想像できない。

今から考えると自分が大きくなった姿なんて想像できなくて当たり前だと思うが当時の私はこう思った。


あぁ私もこんなに大きくならなくちゃいけないのか・・・

いったいどれだけの時間を消費しなければいけないのか・・・

そう思うと恐怖で頭が一杯になったのだった。


あれから何度もこの光景を思い出しては時間の長さに足が竦む思いだ。

外の世界が恐い人間にとっては生きていることがツラい。

生きている時間の長さがツラい。

時間の長さイコール恐怖だった。

いつになれば❝生❞という鎖から開放されるのだろうか。


6歳の私は無意識に❝生❞をこの世に括り付けている時間という鎖に恐怖したのだった。

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