風戸槙

会社員。5歳児の母。愛してやまないものは日本酒。

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最近の記事

まりなちゃんのお母さんのこと

毒親からは離れるしかない。物理的には無理だとしても精神的には一線を引いて、とにかくなるべく関わらないようにするしかない。それは間違いない。 そしてまりなちゃんのお母さんは、紛うことなき毒親である。娘に「やばい」と言われながら、たぶんアルコールのせいで肝臓でも壊して、平均寿命よりだいぶ早いタイミングでお迎えが来るだろう。 まりなちゃんはそのとき、悲しむよりもほっとして、母親の死に「安堵してしまった」ことに涙する、そんな未来図が容易に見えてしまう。 身体より先に、お母さんの

    • 江戸のカタキと長崎と

      「江戸のカタキを長崎で討とうとするな」と、私は常々主張している。 その相手が本当にカタキなら、「ここで会ったが百年目!」となっても、「どうぞご存分に」と刀を差し出すところなのだが、大体は単にちょっとばかりカタキと似た「属性」の人でしかないからだ。 その属性というのも、性別・世代・収入の多寡・パートナーの有無くらいの雑なくくりである。下手するとカタキとの共通点は「日本語を喋る」というだけだったりする。 それで「此間の遺恨覚えたるか」と松の廊下を演じられたらたまったものではない。

      • 「王子様」にはなれないタイプ

        話題になっていた漫画『アッコちゃんは世界一』を読んだ。何とも考えさせられる作品なので、未見の方にはぜひご一読いただきたい。 私はその表現力に圧倒されると同時に、展開にもやもやしたのだが、要は「思ってたのと違う」というのが感想であった。 よくよく考えてみたところ、そのギャップにはいくつかの要素が絡み合っていたと判明したので、参考のために記録しておこうと思う。 その1:女同士の恋愛もの、純愛ものである、という思い込み 冒頭の雰囲気から、勝手に百合純愛を期待してしまった、とい

        • 名称不明の菜っ葉盛り盛りサラダについて

          お店屋さんのサラダはいつもすごいなぁと思う。 レタスかキャベツをメインに据えつつ、芸術的な千切りのニンジンや紫キャベツが彩りを添え、水菜やさらし玉ネギがピリッとしたアクセントになって、コーンが親しみやすさを演出する。ちょっと奮発した1皿には、断面も鮮やかなトマトと何かのスプラウトと思しき菜っ葉(少なくともカイワレ大根ではない)がトッピングされていたりする。 コンビニのサラダなんかでも、見るたび軽く圧倒される自分がいる。どうしてみんな、あんなに気合が入ってるんだ? パスタサラダ

        まりなちゃんのお母さんのこと

          「無償無条件の愛」至上主義やめろや

          「無条件で愛されているのは、子供ではなく親の方」なる言説をTwitterで見かけた。「いいね」やRTの数を見るに、賛同者は万単位のようであった。 私の感想は「んなわけあるかい」というものだ。子供が親を無条件に愛するなど、自分の幼少期を思い返してもありえない。 お菓子やおもちゃを買ってもらえないくらいの些末事で大泣きし、共働きでなければ食べていけないと察していながら保育園は嫌だと毎日のように駄々をこね、要望を叶えてくれないイコール自分を愛していないということだな!?とプレッ

          「無償無条件の愛」至上主義やめろや

          元クリエイターの殺人犯、決着

          『ルックバック』の書籍版が出た。 その前のいわゆる「修正版」に対する感想を綴ったnoteが自分にしてはびっくりするほどたくさんの方に読んでいただけた、言わば「身の丈に合わない夢を見せてもらった」恩もあって、最終的にどこに着地するにせよ、購入することは決めていた。 「修正版」からさらに修正が加えられるというアナウンスは事前に行われていたので、どういう落としどころに持っていくのだろう?と考えながら電子書籍で買って読んだ。 結果、「そうなったのか」と思った。

          元クリエイターの殺人犯、決着

          「絶対的に信じられるもの」の探求、その向こう側

          ヤングジャンプの『ゴールデンカムイ』の全話無料キャンペーンにつられて一気読みをした。頭おかしい愉快な変態ばっかり出てきた。あまりに多すぎて把握しきれなくなりファンブックを買った。 だが、白眉なのはその毒抜きの技術だ。人を殺して皮を剥ぐ、なんてあまりにもエグい話をサラッと読ませる。あれは恐ろしい。 グロさは強いのだが、『進撃の巨人』に比べると安心感が段違いに大きい。幼い子供が理不尽な暴力で殺されない。この点、明確に私の知るジャンプの系譜を感じる。 ストーリーの予備知識はほ

          「絶対的に信じられるもの」の探求、その向こう側

          「ポリコレアフロ」の旅の途中

          巷で話題になっていたので『ミステリと言う勿れ』を9巻まで買って読んだ。 流行りに乗るのもたまには楽しい。普段は逆を行きたがる方なのだけれど、田村由美作品は『BASARA』以来で、Twitterのスクショで見かける絵柄が懐かしくなったのだ。 さて、初読の感想だが、現状わかっている範囲で見るに、主人公の久能整(くのう・ととのう)くんが「ポリコレアフロ」と呼ばれているのは妥当でないと思う。 彼は作者の思想の代弁者として「今の社会で正しいとされていること」を口にしているわけでは

          「ポリコレアフロ」の旅の途中

          注目は人を狂わすか

          某YouTuberの炎上に関して、いろんな人がいろんなことを言っていた。 人命を軽視するのはもちろん良くないし、引き合いに出された猫も迷惑だろう。辛口だからと言い訳するのも見苦しい。 ただ、様々な批判を目にする中で、ちょっと引っ掛かっていることがある。きちんとまとまっていない拙い論だが、3点ほど語らせてほしい。 1. 例の発言によるメリット これは1つだけ、明確にある。 と言っても、炎上で話題になることではない。一時の再生数のためだったとすれば自分の足を食う蛸と同じ

          注目は人を狂わすか

          カメラが天高くぶん投げられた日のこと

          カメラの置き場は自由だ。そう考えていた。 ここで言う「カメラ」とはいわゆる写真機のことではなくて、物語を鑑賞する際に「どこに視点を置くか」という話だ。 作り手の意図がどこにあろうと、それは受け取り手側が決めるものだと、その権利は絶対だと、ずっと思っていた。 映画を最前列で見て迫力を楽しむのも、後列から全体を眺めて画面作りの妙を味わうのも個人の勝手。声出しOKな舞台なら、観客の声援が心地良く響く場所、という基準だっていい。 端っこから見ていると首が痛くなるので真ん中寄り

          カメラが天高くぶん投げられた日のこと

          遠くぼやけてしまった元クリエイターの殺人犯へ

          「ルックバック」の初見時、一番強く焼きついたのがあの殺人者の人だった。 SNSで話題になって半日後くらいのタイミングだったのだが、文化的教養に欠けアンテナ感度も低いので、作品自体に対しては「何かすげえ」としかわからなかった。その後、タイトルの意味とか何ページの英文がとか盛り上がっている人たちを見ながら、「みんな頭良いんだなあ」と感心したものだ。 そんな人間には、藤野さんや京本さんはキラキラ眩しすぎてうまく像を捉えられない。社会性も持たないので「オタクだと思われてキモがられ

          遠くぼやけてしまった元クリエイターの殺人犯へ

          入学してない人間によるエヴァ卒業式感想

          先日、故あって我が不倶戴天の敵であるところのエヴァンゲリオン劇場版を見てきた。 「シン」が付くから別物と言ってもいいのかもしれないが、まあエヴァンゲリオン作品には違いない。 26年前のTVシリーズは、いわゆる「ごく普通」の中学生生活を諦めていた私に、「ヲタク」として生きることすら許されないと絶望を突きつけた作品だった。 最初2〜3話見て、世界観が合わないと思って離れた。なのにその後話題になりすぎて、当時のヲタなら履修して当たり前のアニメになっていた。あの時代、話題の作品

          入学してない人間によるエヴァ卒業式感想

          ちっともあったかくないやさしさのはなし

          「やさしさ」というのは、実はものすごく利己的で身勝手なものだと思う。 他者にやさしくするのは、自分が気持ち良くなるためだ。そう心得ていたほうがいい。 私のやさしさが、誰かに何らかの益を与える方向で発揮されたとしても、それはあくまで二義的な、副産物的なものである。 自覚の有無は別として、自分で自分を「良いモノ」だと、「使えるヤツ」だと思いたい、要は「自己評価を上げたい(または下げたくない)」が第一義なのだ。 その主従が逆転すると、不幸のもとにしかならない。「してあげたの

          ちっともあったかくないやさしさのはなし

          涙は刺激で出る

          「感動モノ」というジャンルが苦手だ。「死」を扱って泣かせるタイプが特に。死んでしまうのが子供や動物だとなお悪い。子供プラス犬の合わせ技『フランダースの犬』なんぞ、懐かしアニメ特集でもラストシーンだけは目を逸らしてなるべく見ないようにする、地雷中の地雷である。 泣く。それはもう安直に泣く。難病モノや戦時中モノもしんどいが、「飼い主に尽くす健気な犬」ネタなんて持ってこられようものなら、映画宣伝のほんの数分だけで涙腺決壊する。そんな有様で本編に耐えられるわけがないので、絶対に見に

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          共感争奪サバイバル、いっち抜っけた〜っと

          ネット記事を読み漁るのが好き、というよりは金がかからずいつでも中断しやすい暇つぶしとして有用である、ということなのだが、いずれにしても元・活字中毒者なので毎日のようにあれこれ読み散らかしている。 たまに、おっ、役立つ情報だ夫に送っとこう、とか、これは面白い切り口だなあ夫に送っとこう、とかいうこともするが、だいたいはふーんと流してすぐ次、となる。 そこで気になるのがコメント欄だ。いつも読み終わったタイミングでちらっと目に入る位置にある。熱のこもった長文を見かけるとつい「もっ

          共感争奪サバイバル、いっち抜っけた〜っと

          「ナニモノか」になりたかった話

          「ナニモノか」になりたい。昔、と言ってもつい数年前まで、強くそう思っていた。 「ナニモノか」とは、辞書的に訳すなら「ひとかどの人物」というのが適当だろうか。 もう少し正確に言語化すると、「富と人望と名声を得ていて、わけもなく死にたくなったりしない人」である。 ここで重要なのは、最後の1点だ。前の3つはそのためにある。それだけ揃っていれば人生を肯定できるだろう、という無責任な想像の産物だ。 「希死念慮」というフレーズは小難しすぎてイマイチしっくり来ないのだが、小学生くら

          「ナニモノか」になりたかった話