「王子様」にはなれないタイプ

話題になっていた漫画『アッコちゃんは世界一』を読んだ。何とも考えさせられる作品なので、未見の方にはぜひご一読いただきたい。

私はその表現力に圧倒されると同時に、展開にもやもやしたのだが、要は「思ってたのと違う」というのが感想であった。
よくよく考えてみたところ、そのギャップにはいくつかの要素が絡み合っていたと判明したので、参考のために記録しておこうと思う。


その1:女同士の恋愛もの、純愛ものである、という思い込み

冒頭の雰囲気から、勝手に百合純愛を期待してしまった、というのが最初の躓きである。
恋愛ものの定義は人によって異なるのだろうが、私にとっては「主人公の恋心が実るなり破れるなりする」、その経緯が物語の主軸となる作品、といったところだ。
これが純愛もの、となると、主人公の想い人への恋心を追ったストーリーがおおよそ数年単位になる、というイメージだろうか。
難病やら事故やら人にはそれぞれ事情があるので一概には言えないが、いずれにせよ恋愛期間3ヶ月では純愛とは呼びがたい。
その「期間」のみを基準とするなら、ナスちゃんの片想いは少なくとも7年以上に渡っており、純愛ものと呼ぶに足るはずである。だが私は、純愛どころか恋愛ものですらないと感じた。
本作は、ファム・ファタールものである。貫いた恋ではなく、それによって道を踏み外す様を描くのが主題だからだ。
ファム・ファタールものとは、恋情に身を任せた女の、奇跡のような一瞬の美を切り取り、「あとはどうなろうと知ったこっちゃねえ!」という一種無責任なジャンルである。
だからこそ、ナスちゃんはアッコちゃんが産んだ赤子なんぞほっぽらかして、愛する人との逃亡ENDをキメるのだ。
先を考えたら、メンタルを病んだアッコちゃんが回復したら、毒夫と毒義母の元に子供を残したことを悔やんで、場合によっては自分だけを連れ出したナスちゃんを責めるかもしれない。そんなシーンを想像したら負けである。
この「恋愛ものではなくファム・ファタールもの」というポイントが次の違和感にも関係する。


その2:ヒロインはアッコちゃんである、という誤解

百合もののセオリーとして、主人公は「攻め」の場合が圧倒的に多い。受け攻めというのはBL用語なのでもしかしたら別の言い方があるのかもしれないが、読者はA×BのA、すなわち「抱く側」の視点で進むことに慣れている。
ナスちゃんがいわゆる「ぬいぐるみペニス現象」を恐れて告白できない状況も、「この人は(相手に受け入れられるなら)アッコちゃんを抱きたいと思っているんだな」と思わせる。だが、これはおそらくミスリードだ。
アッコちゃんの結婚式の場面を思い返してほしい。自分が男だったらナスちゃんと結婚したのに、と語るアッコちゃんに、ナスちゃんは自分も同じだとは言わなかった。
男として並み居るライバルを蹴散らし、アッコちゃんに言い寄って口説き落とすという「もしも」を、彼女は思い描けない。
ナスちゃんは自分に自信がなく、女だからこそアッコちゃんの「親友」というポジションを得られたと思っている。仮に男に生まれていたら、教室の隅から密かにアッコちゃんを見つめ続けるキモい存在にしかなれなかっただろう、というのが彼女の自己評価なのだ。
ナスちゃんが望んでいたのは、アッコちゃんが彼女の忍ぶ想いを察して受け入れ、「親も世間もどうでもいい、一緒に生きよう」と手を差し伸べてくれるハッピーENDだった。
アンナ・カレーニナや八百屋お七や安珍・清姫の路線で言うと、恋慕によって人倫に背くのがナスちゃんであることを考えても、本作のヒロインは彼女だと解釈した方がしっくり来る。
だとすれば、ナスちゃんが終盤まで極めて受け身で、積年の想い人に対しアプローチどころか匂わせ1つしなかったことも当然である。王子様を待つお姫様の立場では、それ以外の選択肢は取りようがない。
ところが困ったことに、アッコちゃんも同様のタイプ、ある意味ナスちゃんよりもよほどわかりやすいお姫様メンタリティの持ち主であった。
ナスちゃんが望むような役を演じられない女の子に「王子様」を求めてしまったというのが、そもそものミスマッチなのである。


その3:ナスちゃんがアッコちゃんの王子様になった、という錯覚

希死念慮に取りつかれるほど追い込まれたアッコちゃんの不幸を、ナスちゃんは「男」たちのせいにした。支配的な父親と兄、レイプ紛いの行為に及んだ元彼、マザコン夫、前時代的なスピーチをした教授、職業倫理に欠けた産婦人科の先生。
不届き者どもに天誅を、という気持ちはまあわからんでもないとして、私としては、一世一代の晴れ舞台ですらアッコちゃんを公然とビッチ呼ばわりした元同級生だの、妻として母として嫁としての役割意識でアッコちゃんを抑圧しまくった姑だのをノーカンにするのは全くもって納得が行かない。
アッコちゃんにダメージを与えてきたのは「女」たちもだ。ナスちゃんはなぜかその被害を「ないもの」とした。それは、(名ばかりとは言え)自らの夫に対する裏切りを正当化する意味でも、「全部男が悪い」ことにした方が都合が良かったからではなかろうか。
ナスちゃんは終盤で、唐突にメサイア・コンプレックスに目覚めたように見える。しかしあれは、シンデレラ・シンドロームの裏返しと見るのが妥当であるように思う。
「白馬の王子様は来ない」という諦念と、自分で人生を切り開くしかないという覚悟。そのあたりが、あのときのナスちゃんには感じられなかった。
「アッコちゃんを世界一にしに来ました」は、世界の誰よりもアッコちゃんを重んじる存在がここにいると示しに来た、それ以上でも以下でもない。
ヒーローが立ち上がったのではなく、言ってしまえば1990年代頃によくあった異能系ヒロインの「嫌ボーン」に近い何かである。
アッコちゃんを犠牲にするくらいなら、皆さんさっさと不幸になってください、という捨て台詞が、おそらく彼女の限界なのだ。「私がアッコちゃんを幸せにします」とは絶対に言えない。
彼女はあのタクシーの中でも、その後ホテルかどこかに避難してからも、アッコちゃんが「あんなクズども捨ててきて清々した!」と笑って、自分に必要だったのはナスちゃんだと高らかに宣言してくれるのを待っているのではないか、そんな気がしてならない。
しかしながら、現実のアッコちゃんは、「主体的な選択」を奪われ続けて、何を望んだらいいのかすら忘れてしまった人だ。
この期に及んでもなお、ナスちゃんには想い人の本質が見えていない。どこまでもすれ違っているのが悲しい。


その4:ナスちゃんとアッコちゃんが「1人の人間」同士として関係を結んできた、という幻想

ナスちゃんは高校の同級生たちとの再会の際、誰1人として名字すらも覚えていなかった。これは「好きな人以外はどうでもいい」というタイプなのだと思ったが、はてさて、では恋い焦がれてやまないアッコちゃんについては、何をどの程度わかっているのだろうか。
アッコちゃんに彼氏ができたから自分も男とセックスする、アッコちゃんが結婚したから自分も形だけ入籍する、ナスちゃんのそうした振る舞いは、想い人を表面的にしか捉えていないように見えてしまう。
食べ物の好き嫌いくらいは知っているかもしれない。だが、アッコちゃんが本当はどう生きたかったかというようなことは、本人ですら自覚していないのだから理解できる道理がない。
作中でナスちゃんは、アッコちゃんのどこを好きなのかに言及することはなかった。その美を讃えはするけれど、努力家だと認めはするけれども、それは「評価」でしかない。
私の目には、ナスちゃんからアッコちゃんへの愛は、『指輪物語』のゴクリの「いとしいしと」、つまり「一つの指輪」への執着心に似たものに見えた。
言い換えれば、それさえ手に入れれば自分が特別な存在になれる「マジックアイテム」扱いである。
「生きていてくれさえすればいい」というのは善意には違いないが、アッコちゃんが自分の人生を生き直すためのサポートは、おそらくナスちゃんにはできない。
ナスちゃんはアッコちゃんを、それこそ世界一大事にはする。ただ、支配され慣れたアッコちゃんは、ナスちゃんに父親や夫の代わりとして「常に正解ルートを指し示してくれるコントローラー」の役割を望むし、ナスちゃんは一度自分のものになったアッコちゃんを手放したくないから、それに応えようとしてしまう。
だがしかし、他人の人生なんて重たいものを背負えるキャパシティがナスちゃんにあるのかと言えば「ない」。
かくして、「あいつらどう考えても上手く行かないよなあ…」という圧倒的な絶望感とともに物語は幕を下ろすことになる。一見、いかにもカタルシスを得られそうな、ナスちゃん無双の画面の裏側で。
現実的にあの2人を救えるとしたら、それは男性憎悪ではなく、「お互いポンコツだけど支え合ってどうにかやっていこうぜ」という精神だと思うのだけれど、彼女たちはいつかそのことに気付けるだろうか。