「絶対的に信じられるもの」の探求、その向こう側

ヤングジャンプの『ゴールデンカムイ』の全話無料キャンペーンにつられて一気読みをした。頭おかしい愉快な変態ばっかり出てきた。あまりに多すぎて把握しきれなくなりファンブックを買った。

だが、白眉なのはその毒抜きの技術だ。人を殺して皮を剥ぐ、なんてあまりにもエグい話をサラッと読ませる。あれは恐ろしい。

グロさは強いのだが、『進撃の巨人』に比べると安心感が段違いに大きい。幼い子供が理不尽な暴力で殺されない。この点、明確に私の知るジャンプの系譜を感じる。

ストーリーの予備知識はほぼなかったが、私は「コイツなら絶対死なねえ」と確信をもって白石さんの近くにカメラを据え付けた。今後もし予想が裏切られたとしても、それはそれで良いネタになる。

冒頭2話ほど読んで「これ面白いね」と夫に言い、「飯ものの漫画好きだもんね」と返されたときは、「は?開始早々ヒグマと死闘繰り広げててご飯どころじゃないんですが?」と思ったものだが、読み進めてわかった。その「飯もの」感こそが上手くバランスを取っている。

殺して食べる。「チタタプ」したり「オハウ」にしたりして、食に感謝して「ヒンナ」と言う。動物の「死体」が「食材」になる瞬間、非日常が日常に戻る。

そこに人の死も混ぜ込んで、「獣の毛皮を剥いで利用するのを残酷だと言うのは違うでしょう?」という理屈に見せかけるわけで、あれは絶妙に上手いと言うよりない。いつの間にやら読者の中で「刺青人皮」が人間の死体の一部から単なる「キーアイテム」化する。

殺すか殺されるかの緊張感を、「食べて寝てオソマする」普通の暮らしを挟んで緩和しているのだろう。自分と「地続き」の人として、登場人物に親しみを持たせる手法も巧みだ。

そんな中、個人的に完全アウトだったのが姉畑さんと江渡貝くんだったというのが面白い。欲望に正直な生き様、という意味では、稲妻夫婦などは割と嫌いじゃなかったりする。つまり私の倫理観は、殺人よりも動物虐待と死体損壊の方が許せない、となるわけだ。

という自己分析と共に見えてきたのが、「国に裏切られた人たち」の共通性である。

土方さんたちは明治維新の頃に、杉元さんたち軍関係者は日露戦争の際にそれを味わった。囚人たちにしても、安価で使い潰せる労働力扱いされていた「鎖塚」の時代だ。北海道に送られたのは政治犯が多かったと聞くし、「お上」への不信は根深いだろう。

言ってしまえば、父の過去を知らずに育ったアシリパさんと、恋と脱獄に青春を費やした白石さん以外の主要登場人物全員、「敗残者が巻き返しを図る」物語なのだ。

その「敗残者組」、特に203高地経験者には、「無能な上層部への尽きせぬ恨み」という共通言語があると思う。

杉元さんも鶴見中尉殿も、だからこそどこかで通じ合う。同じ場所で谷垣さんは妹の夫・賢吉さんへの誤解を解き(併せて罪悪感を抱え)、尾形さんは腹違いの弟・勇作さんを殺し(同時に罪悪感を否定し)ているのだけれど、それは自身の個人的な問題に気を取られていたがゆえに、「意識せずに済んだ」のだと思うのだ。

「国」はいざというときには守ってくれない、自分の全てを捧げるには値しない。「ならば何を信じればいいのか?」という、個々の答えが描かれるのが本作だと私は感じている。

そして登場人物たちの選んだ答えは、基本的に「信じられる群れを作る(あるいは信じる群れの構成員になって貢献する)」に集約されるように思う。

もちろん、自分の力のみを頼みとして、あるいはひっそりと身を隠すために、独りで生きることを選んだ人もいるのだが、そういうタイプはここまでのところ軒並み非業の死を遂げているので、作中世界でそれを正解にしているとは考えづらい。

独自の道を行くにしろ、必要に応じて別勢力と共闘できる人が生き残ったり、比較的まともな死を迎えたりしている。過酷な環境下において、人は群れずには生きられないということかもしれない。

その「群れ」は、若山親分のように子分を集めて一家を構えるパターンが多く、「王になる」と夢を語った海賊房太郎さんも(具体的なビジョンはなかったので)そこに入ると思う。

土方さんや鶴見中尉殿、あるいはアシリパさんの父のウイルクさんには「新しい国」という形で見えていたけれど、それには高等教育が要る。

谷垣さんの属する「群れ」は恩人のフチさんの暮らす村で、個人の幸せという意味ではそのくらいの規模がちょうど身の丈に合いそうだ。

一方、杉元さんはもっと小さな「疑似家族」的なものと捉えている。おそらく、守るべきものを増やして守り切れなくなり、自分の手のひらからこぼれ落ちるのが怖いのだ。だから最小限、相棒のアシリパさんと初恋の梅子さんしか彼の心に入れない。

土方さんも鶴見中尉殿もキロランケさんも、杉元さんが後生大事に抱えているものを「大義の前には取るに足らないつまらないこと」と評するのだろうけれど、現代に生きる私に言わせれば、それも大局を見すぎて個を忘れた人の哀しさだ。

好きな人が美味しいものを食べたときの笑顔に至上の価値を置く人を、「小人」と見下さなければならない不幸を気の毒に思う。土方さんの好物が「細かく刻んだ沢庵を載せたお茶漬け」であるあたり、同志の永倉さんの好物「ウナギの蒲焼」とお値段的にも差がありすぎて、人生の中で犠牲にしてきたものの大きさを思ってますます切ない。

第7師団の面子にしてもそうだ。ファンブックのプロフィールの「好き」か「嫌い」に「月寒あんぱん」が入っている率が高すぎて、世界の狭さを感じずにはいられなかった。

あの人たちに必要なのは、本当は金塊などではなかったはずだ。早い段階でフチさんたちの優しさに触れ、インカラマッさんと心を通じ合わせた谷垣さんがそれを示していると思う。

それなのに、時代や立場が別の生き方を許さないというのが実にしんどい。そんなしがらみはぶん投げて逃げればいいのに、というのも勝手な意見で、実際にそうしたら無関係の家族にまで累が及ぶ。

せめて、なるべく多くの登場人物が、本人の納得できる着地点に到達できることを願っている。おそらく生き残り確定の永倉さんには、口腔ケアに励んで史実より長生きしてもらいたいところだ。

それはそれとして、本作の副作用、リスが愛玩動物でなく可食物に見えてしまう弊害は深刻である。コロナが終息したらジビエ料理のお店に行きたい。