カメラが天高くぶん投げられた日のこと

カメラの置き場は自由だ。そう考えていた。

ここで言う「カメラ」とはいわゆる写真機のことではなくて、物語を鑑賞する際に「どこに視点を置くか」という話だ。

作り手の意図がどこにあろうと、それは受け取り手側が決めるものだと、その権利は絶対だと、ずっと思っていた。

映画を最前列で見て迫力を楽しむのも、後列から全体を眺めて画面作りの妙を味わうのも個人の勝手。声出しOKな舞台なら、観客の声援が心地良く響く場所、という基準だっていい。

端っこから見ていると首が痛くなるので真ん中寄りがオススメ、なんてことはあっても「どこから見るのが正解」と押し付けられる道理はない。

物語の中に入り込んでカメラを設置するのも、それと同じだ。しかも現実の映画館や劇場と違って、取りたい席が大人気で埋まっているということがない。好きに位置取りをして、途中で移動するのも自由。

私はどちらかと言うとストーリーよりもキャラクター重視の見方をするので、「どこにカメラを置くか」は「誰に感情移入するか」とほぼ同義である。

メインの登場人物に好みのタイプがいればすんなりカメラの置き場が決まる。好きな作品だとだいたいそのパターンが多い。

それができない場合は、悩みつつ自分向けのポイントを探して彷徨うことになる。カメラを担いでうろつきながらシャッターチャンス、すなわち「何かを心に焼き付けられる瞬間」を狙うのだ。

作者が訴えたかったことは何か、一番こだわった箇所はどこか、というようなことは、どうでもいいとまでは言わないがあくまで参考程度であって、さほど重要でない。

「自分がどう感じたか」と、「なぜそう感じたか」を突き詰めたいのだ。その点、何と言っても初見の所感は大事である。そのときすぐに理由がわからなくてもいい。誰かの生き様に対し、何らかの感情がわき上がってきたとき、それをなるべく高純度で掬い取れる場所が望ましい。

ゆえに、カメラは自由でなければならない。「決定的瞬間」は人それぞれ。「いい画」が残せるようにという親切心からでも、他人から「この距離からこの角度でこのようにして撮ってください」などと指図されるのは真っ平だ。

借り物の「映え写真」では意味がない。ブレても歪んでも、自分の視点で切り取りたい。言うなればイキりオタクの一形態である。

ところが、つい先日、『進撃の巨人』を一気読みして未知の体験をした。

「自分のカメラが途中で、作者の見えざる手で動かされた」としか思えないのである。おまけに、読了までそれに気付かなかった。

『進撃の巨人』、略称『進撃』は言わずと知れた人気漫画で、オタク一般教養の一つである。

今まで手を出さなかった理由は私の鬱及びグロ耐性が低いからだが、もう一つ大きかったのは、噂に聞くだけでも難解すぎて、私の頭では到底理解できそうになかったことだ。

それを読もうと思ったのは、夫が完結記念に全巻大人買いしたのと、とある作家さんの「わからないものはわからなくていい」「負けるのは大切なことだ」という言葉に背中を押されたことによる。

つまりは、最初から負けに行ったのだ。私の娯楽鑑賞における勝ち負けの基準はシンプルで、「萌えたら勝ち」。補足するなら、描かれていない部分までもっと深く知りたいと思えたら勝ちで、「よくわからなかったし考えて理解できる気もしない」が負けである。

予備知識だけは充分だったので、先人の教え「推したら死ぬので誰も推してはならない」を肝に銘じて突撃した。ちなみに、推してはいないがハンネスさんを尊敬している。主人公エレンの母カルラを見捨てる決断を十歳かそこらの子供たちにさせなかった、あの日の恩義は忘れない。

『進撃』がすごい作品であることは今さら疑う余地もない。前半はそれこそ一冊読み終わるごとに「息をつける瞬間がマジで全然、これっぽっちもない」と驚愕していた。

過酷な展開を描き続けるのは気力体力、要は作者自身のエネルギー量に依存するという説を私は信じているので、よくガス欠が起こらないものだと感嘆した。

翻って読み手の方も、あれをリアルタイムで追いかけて、さらにはカップリング萌えまでしていたわけである。半端ないパワーと評するべきで畏敬の念を禁じ得ない。あの頃うっかり触らなくて命拾いした。

戦う前から勝てる気ゼロの腰抜けは、ただ「巻き込まれて死なないこと」だけを考えて読み進めていた。

何しろ、油断したら希死念慮が引きずり出されそうな絶望的展開の連続である。「この人カッコいい」なんて思おうものならその直後、まるっと巨人に食われるに決まっている。

主人公贔屓でもないのに、原則エレンの周囲、近すぎず遠すぎない辺りにカメラを置いていたのは、ひとえに保身のためだ。最終巻でああなるというのはネタバレ動画で履修済みだったので、逆にそれまでは安泰と踏んだのである。

しかし、思ったとおりにはいかなかった。

ビビり散らかしながらも「指導」を取られないよう注意深く組手争いをしていたはずなのに、襟を掴まれた覚えすらなく、ものの見事に投げられて、ほけっと天井を眺めていた。高校時代にちょっとだけかじった柔道で例えるとそんな感じだろうか。

思い返すとマーレ編、「クルーガーさん」の正体が明かされたくらいのところではなかったかと思う。その前にエレンの父グリシャの回想で崩しが入って、ファルコとライナーの話で足を刈られそうになったのを堪えた、という記憶はたぶん確かだ。なのでその後だと思う。

それまで地べたをうろうろしていた私のカメラは、空の上までぶん投げられた。本人の体感的には、「急に登場人物たちの生々しさが遠ざかった」という印象だった。一番顕著だったのはサシャの死で、一〇四期の同期生たちの嘆きがなぜか他人事だった。

ただ、ちょうど同じ頃、アルミンたちもエレンの考えがわからなくなったと悩んでいた。だからそのせいかと思い、違和感をスルーしてしまった。

そんな引っ掛かりよりも先が気になって、ページをめくり続け結末に辿り着いたとき初めて、そこが「神の視点」だったと悟った。なるほど、人間が蟻んこに見えたのも道理である。

そうと気付いた瞬間、少し不快になった。こちらの事情による機器の不具合ならいざ知らず、それまで全方向にぐるぐる回せていたカメラがいきなり固定になるのはおかしい。

ちょうど夫に感想を聞かれたので、その件について訴えたら、自分はそんな感覚はなかったと言う。もっと突っ込んでみたら、どの作品でも俯瞰で見るので常に「神の視点」にいただけだった。

理解と共感を得られなかったことでムキになり、私は「カメラの自由の侵害」に対して一人で憤慨した。夫はそれを見て、「でもすごいねえ、その技術」と褒めた。「確かに」と同意せざるを得なかった。

敗北は最初からわかっていた。負け方が気に入らなくて駄々をこねていた。怒涛のコンボで無様に地面を嘗めさせられるものと思ったら、なるべく痛くないように、素人でも受け身をちゃんと取れるようにキレイに投げてもらって一本負けだった。圧倒的な力量の差というやつだ。

気になるのは、最後まで登場人物の近くにカメラを置いて見守り続けた『進撃』ファンの体感である。あそこでぶん投げられなかった人、砂かぶりならぬ肉片かぶり席をド根性で死守した人のカメラには、何が写ったのだろうか。