遠くぼやけてしまった元クリエイターの殺人犯へ

「ルックバック」の初見時、一番強く焼きついたのがあの殺人者の人だった。

SNSで話題になって半日後くらいのタイミングだったのだが、文化的教養に欠けアンテナ感度も低いので、作品自体に対しては「何かすげえ」としかわからなかった。その後、タイトルの意味とか何ページの英文がとか盛り上がっている人たちを見ながら、「みんな頭良いんだなあ」と感心したものだ。

そんな人間には、藤野さんや京本さんはキラキラ眩しすぎてうまく像を捉えられない。社会性も持たないので「オタクだと思われてキモがられちゃうよ」の人には「うるせえモブ」としか思わない。

唯一、「何となくわからんでもない」と感じたのがあの人だった。「普通の人」をやれないことに絶望し作家を夢見た十代の自分、ただ文章を書くのが好きなだけでそれで飯を食えるような才はないと悟ってしまった二十代の自分、その延長上にあの人の苦しみを見た気がした。

「その道」にしがみついたまま二十年三十年過ごしたら、どうなっていたのかはわからない。私はそれを選ばなかった。

脱ひきこもりのよくあるパターンで、アルバイトで月に数万円稼ぐところから始め、最低賃金ギリギリ、軽作業とは名ばかりの重労働だったが、おかげで働ける自信はついた。腰を痛めたことで続けるのが難しくなり、求人サイトを巡って運良くありついた派遣の仕事から契約社員、正社員にステップアップし、必要だったのは「普通の人」になることではなくて「普通の人のふり」ができることだと知った。

今こうなっていなかったら、私も「あちら側」にいたかもしれない。何が自分とあの人を分けたのかが気になった。

現実のニュースでも同じように感じることはあるが、結局は生い立ちの違い、与えられた選択肢の差で説明がついてしまう。その点、読み切り漫画の「舞台装置」の生育環境は明かされないのが普通なので、わからないながらもゆっくり考えていこうと思っていた。

いつもは胸にしまって、時々思い返して、やっぱりわからんと元に戻す。そういう長い付き合いを予想していたところ、「ルックバック」修正のニュースが流れてきた。編集部のコメントによると、あの人の台詞その他が特定の疾患を想起させて差別や偏見を助長するという理由らしい。

その改編の結果、あの人は「どこかで何かを間違えたらああなっていたかもしれない自分」ではなくなった。世界の何もかもに見放されて自暴自棄になって他害に走った「無敵の人」の絶望は、私が今いる日常からはあまりにも遠い。

正直、物語としての納得度は下がった。ふざけんなよ嘘つき、「誰でも良かった」わけじゃないだろうと、あの人を問い詰めたいような気分になった。

あの人の真の動機はあの人しか知らない。作者の先生でもたぶん百パーセントはわからない。

だからこれは単なる想像なのだけれど、修正前のあの人は、恵まれている被害者が許せなかった。才能を認められ輝かしい未来が約束された(ようにあの人からは見える)若人の人生を奪って、成り代わりたかった。

修正後のあの人は、相手の持っているものの良し悪しなんか見ちゃいない。自分のしんどさを世に知らしめるために、たまたまその場にいた被害者の人生を叩き壊しただけだ。

それが理由なら、ひきこもりだって飲み物を買いに出た自販機前で通り魔に遭うかもしれないし、自宅で寝ていたって暴走ダンプが突っ込んでくるかもしれない。どこで何をしていたって危険度はそう変わらない。

自分が京本さんを外に連れ出したせいだと藤野さんが悔やんでいるとき、「一面の真実ではある」と頷ける余地はなくなった。そんなわけあるか、犯人だけが悪い、で終了だ。

そして残念ながら、私はそう物覚えが良くない。電子書籍は改編されたら元の作品が残らない。なぜかスクショを残していてくれた知らない人のおかげでどこのコマが変わったかはわかったけれど、いざ修正後の作品を読んだ途端、修正前のあの人がぼやけて遠ざかって、小学校時代の同級生の顔みたいにあやふやになってしまった。

それが悲しくて、まだうっすらとでも覚えていられる間にできる限り考えた。

修正前のあの人と、私の道を分けたものは何だったのか。絵に罵倒されたあの人は絵描きで、言いたいことを前に語彙不足でしばしば立ちすくむ私は字書きで、表現方法は違うが、それは大した差ではない。創作で身を立てることを諦められたか否か、でも決してない。

あの人はきっと、何かを生み出すことが好きなわけじゃなかった。作ったもので他人に褒められるのが好きなだけだった。なるべくたくさんの人に褒めてもらえる「正解」を探し続けて、だから大成しなかった。

誰か際立った才能のある人が、自分の名前を出せない何らかの事情で、私の作品をあなたの手柄にしてもいいですよ、と言い寄ってきたなら、あの人は一も二もなく飛びついただろう。そういうところがダメだったんだよ!と、私は全力で叫ぶ。

あの人は結局、あの人自身が本当に欲しいものを突き詰めて、それを完成させるところまで辿り着けなかった。出来に納得が行くか行かないか以前の問題だ。

「自分のをパクった」とあの人は怒鳴った。それは「作りたいもの」がアイデアレベルで終わってしまった、作品としてエンドマークをつけられなかった証左なのだと思っている。欲しかったのはワンアンドオンリーのときめきを詰め込んだ完成品ではなくて、富や名声のような世俗的な成功だった。それならやり手の営業マンでも目指せば良かったのだ。

私は私のためだけに、売れない推しカプ同人誌を書いた。あなたがあなたのためだけに作った作品は一つだってあったか。あったんだったら見せてみやがれ。修正前のあの人に、今の私はそうやって喧嘩を売れる。

けれども、修正後のあの人は、その私の「とっておき」のキラキラを無価値だと断じるのだ。それを「役に立たねえくせに」と言うあの人を、それなら私は結婚して子供を産みましたがそちら様はどんな貢献を?という社会的な正しさの棒でぶん殴り返せてしまうのだ。

修正前のあの人より、明らかにイージーモードになってしまった。物理的にではなく思想的に、「勝ちやすく」なってしまった。それが切ないのか悔しいのか、とにかくどうにも腹落ちしない。

どのみち変わらなくたって、私のような凡人は、人生のどこかであの人と交わる可能性なんてなかった。それでも、あの人は、「人の形をした理不尽」ではなく、「人の心ゆえに道を誤った鬼」であってほしかった。

変わってしまったあの人を、私はたぶんすぐに忘れる。一月後にはそんなこともあったっけ、一年後にはよく覚えてないや、で記憶から消えてしまう。

作者の先生が熟慮の結果そうしたなら文句を言う筋でもない。ただ、覚えている間にあの人にちゃんと「さよなら」の挨拶をしたかった。この文は、おそらくそういうものなのだろう。


2021年9月4日追記
書籍版を購入して、再修正版『ルックバック』を読了したので感想を書きました。こちらもお読みいただけたら嬉しいです。