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1996年からの私

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週刊プロレス7代目編集長・佐久間一彦が、三沢光晴、小橋建太、髙山善廣らプロレスラーに学んだ日々の記録。
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2020年4月の記事一覧

1996年からの私〜第10回(02年)偉そうにしない。虚勢を張らない。

三沢さんの激励。「頼りなくなんかない」2002年になって間もなく、当時の週プロのエースで一番お世話になっていた佐藤景さんから、「俺、サッカーマガジンに異動になるから」と衝撃の告白を受けます。日韓サッカーワールドカップの開催により、サッカーマガジン編集部の強化という狙いと、本人のかねてからの希望もあって、3月いっぱいで週プロを去るというのです。 週プロは編集長の佐藤正行さんをはじめ、鈴木健さん、湯沢直哉さんなど、仕事ができる人材は他にもいましたが、揃いも揃って皆さんコミュニケ

1996年からの私〜第11回(03年)チャレンジしなければ失敗しない? やらないことが一番の失敗だ

湯水のように湧き出る企画案インターネットが発展してきた2000年以降、雑誌の売り上げは右肩下がり。週プロも苦戦が続くようになっていました。そんななか2003年になってすぐ、佐藤正行編集長から大役を任されます。「佐久間に任せるから面白い企画を頼む」と中カラーの特集化にGOが出ました。第7回で書いたように、中カラーの特集化を最初に提案したのは、2000年のことでした。このときはまったくノーチャンスでしたが、その後、全日本プロレスのチャンピオン・カーニバル特集、夏のプロレス特集、闘

1996年からの私〜第12回(04年)NOAH増刊号の光と影〔前編〕

試合リポートに特集にとフル回転し、絶好調だった私は4月人事で編集次長に昇進しました。3年前には正社員になれず退社の話をしていたことを思うと(第8回参照)、何か一つのきっかけで事態が大きく変わることを実感できます。このとき、同時に編集長が佐藤正行さんから、私が格通に在籍した時代の編集長でもあった本多誠さんに代わりました。 この年の夏、NOAHが初めての東京ドーム大会を開催。本多編集長と協議した結果、NOAHでは二度目となる増刊号を出すことになりました。本誌の取材と並行して制作

1996年からの私〜第13回(04年)NOAH増刊号の光と影〔後編〕

誤算続きだった試合当日前回は増刊号を売るために私がおこなった仕掛けを紹介しました。今回は試合当日のこと、そして後日談を紹介していきましょう。NOAH7・10東京ドーム大会のメインは小橋建太vs秋山準のGHC戦。他にも三沢光晴と武藤敬司の初遭遇、獣神サンダー・ライガーvs金丸義信、丸KENタッグに杉浦貴とケンドー・カシンのコンビが挑むジュニアタッグ戦などがラインナップされていました。 私はメインの小橋vs秋山戦を担当。ここに至るまでに二人をたっぷり取材してきたので、渾身のリポ

1996年からの私〜第14回(02〜06年)闘龍門とDRAGON GATE①ウルティモ校長の奇策

一緒に上を目指す良き仲間たち前回までは担当団体NOAHにまつわる話を書いてきましたが、同じく2002年から担当となった闘龍門(DRAGON GATE)は、一緒に成長してきたという思いが強い団体です。 担当になった当時の私は26歳で、担当団体を持つ週プロスタッフの中では最年少(サポート係の若手は現在主力の市川記者などがいました)。どこの団体に取材に行っても圧倒的にベテランが多いなか、闘龍門は同世代、年下の選手ばかりで、一緒に上を目指す仲間という意識が強くありました。 ご存知

1996年からの私〜第15回(02〜06年)闘龍門とDRAGON GATE②北京遠征が生んだ奇跡

ROH、PWGで輝くDG最先端プロレスと称されるDRAGON GATE(以下DG)のプロレスは、言葉の通じない国でも、圧倒的なパフォーマンスでファンを魅了していました。2006年は3〜4月にROHのシカゴ&デトロイト大会とヒューストンのDGアメリカ支社の取材、9月にPWGのバトル・オブ・ロサンゼルス、そして12月には中国・北京での自主興行を取材。どれも強烈な印象が残っているものばかりです。 ROHは全世界のプロレスファンが注目するレッスルマニアウィークの中での大会。ここでD