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短編小説

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【短編】 かはたれそ おれの かたわれ

【短編】 かはたれそ おれの かたわれ

少年は知っていました
「かわたれ」は、優しいモノでした
「かわたれ」は、薄闇の野でしか生きられない
「かわたれ」にとって、夜の闇も燦々と照りつける太陽も、安らぎを与えるものではありませんでした

「かわたれ」が深い闇に溶けてゆく前、少年は「かわたれ」が蜻蛉と触れ合うのを見ました
強い風に吹かれて身動きできなくなった蜻蛉を、「かわたれ」はそっと手のひらで受け止めてやりました

少年はその蜻蛉を羨まし

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ミモザの海、デルフィニウムの翼

ミモザの海、デルフィニウムの翼



1. 失楽園 あの小さな場所で、僕らは出会った。
 ウッドデッキがきしきしと音を立て、町の周りをかこむ山々から風が吹き下す。
 庭が僕らの、秘密の楽園だった。
 たしかなものなんていらないし、ぬくもりも約束もいらないから。
 だからどうか。
 ねえ。夢で、逢おうよ。

「あの……大丈夫?」
 膝を抱え座り込む君に、僕が訊ねた。それが始まり。
 苦しげにうずくまった同い年くらいの男の子。
 から

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古書ときどきくらげ【改訂版】

古書ときどきくらげ【改訂版】

「雨の日は本の買い物には向きませんから」

 嫌な顔もせずに古書店主は酔っ払った私をにこにこと送り出そうとするので、
「いや、そんなことは」と古書好きのプライドもあり、とにかく一冊手に取った。
 表紙からページから濃厚な古い本のにおいがはじけた。ちょっと喉が痛くなるような、ほこり混じりのあのにおい。なんとはなしに潮の香りまでする。
 かろうじて綴じ糸でまだつながっているが、はらはらとページがばらけ

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青の系譜

青の系譜

つめたい肌だ。
夜気がひんやりと部屋の中に漂っている。
熱く煮詰まった口を開こう。

私のお母さんは、青い車に乗っていた。
小さな丸っこい青い車だ。
あの青をいまでも憶えている。
かわいいかわいい大好きな車だった。
私たちは二人、いろんなところに行ったと思う。

そろばん教室に行く途中、
自転車の小学生にぶつかった。
その子どもの家にお母さんが菓子折りを持って謝りに行った。

妹がまだお腹に入って

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迷える小鳥が啼く夜は

迷える小鳥が啼く夜は

** こうして夢魔の境に歩がすすんでゆくところ
ああ、霊感がいっぱい、あたりまえのこといっぱい
〔絵馬、a thousand steps and more /吉増剛造〕**

花びらが滑るように足もとを流れてゆく。
とてもあたたかい空気がただよっている。
目に見えない風は柔らかな皮膚と背中の羽根で感ずるものだけれど、今晩ばかりは春の小花が、空気の変化を目に見えるかたちに彩ってくれる。
天使は、自

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だれも知らないこと

だれも知らないこと

ばさばさと羽音がしたときには店頭の菜花をくわえたトビが舞い上がり、八百屋の親父は「あー!」と叫んでしばらく腕を上げ下げするしかなかった。家と家の屋根の間をかすめるようにトビは大きな羽根を目一杯広げ、町工場の煙突のほうへ上昇していく。若鳥をなくしたばかりの連れ合いのところへ菜花を運ぶために。そのことを知るものはだれもいない。

土手を黒髪の女の子が自転車で走り抜ける。首にちいさながま口の財布をさげて

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春の夢

春の夢

リスは便秘気味だったのかもしれない。
だとしても、そんなことに構っている余裕はなかった。
冬眠を前にして躊躇するわけにはいかないのだから。
くるみ集めの途中、いつもの木陰でひと休みしていると、
「きょうはいちだんと重くなったようだ」
木が語りかけている。
「だってもうすぐ冬だもの」
リスは母から聞いていた。
こういうものを「お宿り」というのだ。
口がついているわけでもないのに、木がおしゃべりするな

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正しい夜の過ごし方

正しい夜の過ごし方

秋。風の強い夜だった。寂しさで荒れ狂いそうな、この世界にたった一人しかいないと思い込んでしまうような夜だ。闇の色も電球の光も、心なしか濃い。
台所まで降りて、ワインをとってこよう。こんな夜は、酒と分厚い本とあたたかいランプの力でやり過ごすのだ。和臣は部屋のドアを開けた。

この家は叔父夫妻のものだ。しかし叔父の仕事で二人とも海外で暮らしている。その間、和臣が管理を任されることになった。だから誰もい

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