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わたしが見た、発達障害の歴史

発達障害の歴史とは?

肢体不自由児施設で見て来た子どもたちの変化

 肢体不自由児との関係

たぶん、ほとんどの人が知らない不思議な歴史です。



わたしは、昭和53年から、平成15年まで、肢体不自由児施設に作業療法士として勤務していました。

現在では発達障害とは、自閉症スペクトラムや、学習障害、注意欠如多動性障害などの、落ち着きがなかったり、コミュニケーションに問題があったり、人間関係がうまくいかないなどの人を指します。また、感覚が過敏だったりする子どもをHSC(HighlySensitiveChild)
といいますが、症状によって新しい診断名がどんどん増えていってるように感じます。

私が学校で習った発達障害とは、整形外科の分野から発祥したものです。
就職した当時、一番多かった疾患は、脳性麻痺でした。その定義は、「受胎から生後4週以内の新生児までの間に生じた、脳の非進行性病変に基づく、永続的な、 しかし変化しうる運動および姿勢の異常」です。

それに似せて
作業療法では、発達障害を「発達過程で受けたダメージが永続的に続くものであり、なおかつ発達の過程であるもの」を言っていました。

つまり、胎児期や幼児期に脳や身体に大きなダメージを受けて、それが完治しない場合はそれが障害になるわけですが、子どもは発達するので、それが変化するのです。
「障害がある場合、発達を放っておけば、異常発達をするので正しい方向に導きましょう」と言うのが、本来の療育の考え方でした。療育という言葉も、整形外科からの発祥です。
私の勤め先も、「療育園」という名前でした。療育園の療育課にいました。
異常発達という言葉に、嫌悪感を抱く方もおられるとおもいますが、特に脳性麻痺の場合は、姿勢に問題が出てくるので、側弯や拘縮により、歩行ができなくなったり、呼吸ができなくなって死に至ります。例えが悪いかもしれませんが、雷に当たった木は、真っ直ぐに育たちにくいというように考えていただければいいかと思います。

発達障害という言葉についての説明は、長くなるのでここまでにしておきます。

昭和53年に戻りましょう。
前述したように、脳性麻痺の子どもがたくさんいました。しかし、何人か脊髄性小児麻痺(ポリオ)の人もいたと思います。その施設は、まだ貧しい昭和30年代にポリオの子どもたちのために作られた物でした。
ポリオワクチンが発明されるまでに、ポリオウイルスに罹患したこどもたちは、親元を離れ整形外科医のいる施設へ入所していました。そこでは、学校も併設されていました。
これが「療育」の始まりです。

ポリオワクチンの発明により急速にポリオは、減っていきました。生活も豊かになってきた頃に、現れたのが脳性麻痺です。
脳性麻痺の3大原因は、未熟児、新生児黄疸、仮死出産です。医療の進歩により、以前は亡くなっていた子どもたちが、助かることになりました。それに付随しておきた現象です。私が勤め始めた時、世界中で、脳性麻痺について研究をしていました。対処的な薬や手術はありますが、それだけでは治らない、何をすればいいのだろう?子どもたちは、大きくなっていきます、姿勢が歪んでいくのを止めるには、どうすればいいのだろう?
いろいろな、治療法が出てきました。ボバース法、ボイタ法など…理学療法士や作業療法士も大勢勤めていました。

53年当時は、松葉杖や装具をつけて歩ける子がたくさんいました。アテトーゼ型という不随意運動が出現する子どもでも、歩いている子が何人もいました。食堂でテレビに歓声をあげたり、廊下を走って転んだり、口が達者なのでよく私と口喧嘩してました。みんな元気で楽しかったです。近くの川まで、2泊3日のキャンプにもいきました。川で魚を捕まえたり、釣りをしたりしましたね。

医学は、日々進歩し続けます。
脳性麻痺の子どもたちの間に変化が現れました。10年くらいの間に食堂の椅子が、少しずつなくなってきたのです。車椅子が増えたからです。歩ける子が退院したわけではありません。歩けない子が増えたのです。障害の質が変わってきたからです。そして、そこから数年後、食堂がなくなりました。病室で食べることになったからです。
子どもたちは、車椅子を漕ぐことができなくなっていたのです。つまり、医学の進歩によって、生命を維持する子どもたちが増えたということです。喋れるこどもも少なくなりました。

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