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子どもと遊びと「自由へのプラットフォーム」のこと/時間の加速度のなかで

noteを始めたのが、2020年4月でコロナ禍のまっただ中だった。「アラフィフゆるフリーランス」のマガジンに参加させてもらったのがその年の秋で、「体にいいライター業」を実現したい、みたいなことを書いた。あれから3年半経って、個人的な状況はかなり(予想もしなかったほど)変わった。

引っ越しました。

老人ホームに入居した八王子市の大叔母の家が空き家になっていたので、長年住んだ調布市深大寺のアパートを2022年11月に引き払い、今はそちらに住まわせてもらっている。多摩丘陵の斜面にある、築50年くらいの一戸建て団地の一棟で、小さな庭もある。
2年間空いていたため、スズメバチの巣があったり、ネズミさんやハクビシンさんが先住していたりといろいろあったのだけれど、土のある暮らしはとても楽しい。ちょっぴりだけど庭にふきのとうが出るのでふき味噌を作ったり、山椒の若芽を乗っけて魚の木の芽焼きを作ったり、15個だけ取れた梅の実をみりんに漬けてみりん梅酒にしたり(まろやかかつ鮮烈な甘酸っぱさでいかにも体に良い味。おおっぴらにやると酒税法違反らしいが15個だから許して)、酒飲みとしては楽しみに事欠かない。
びっくりするのは、勝手にいろんなものが生えてくること。同じ1m四方の土から、早春には福寿草が光そのものみたいな花をつけ、初夏には釣り鐘形のホタルブクロがいくつも咲いて、9月末には彼岸花の茎がビューッと伸び、火花がはじけるように咲く。
これらの植物はみな、花が終わってしばらくすると跡形もなく消える(ように見える)。同じ土の中に、どれだけの根や種が同居しているんだろうなと思う。

2年前のnoteでは、庭仕事って料理やパンの「仕込み」の感覚に近いんだろうと書いていたけれど、実際はむしろ予想外で驚くことのほうが多い。

新しい仕事、始めました。

といっても、アルバイトなのだけれど。
去年の10月から週2回、思いがけず高校時代の同級生に誘ってもらい、学童保育のお仕事を始めた。
私には子どももいないし、教育学部出身でもないのだが、数年前に学童の仕事を始めた友達の話を聞いて、自分もやってみたいなと思っていたのだ。
子どもたちには教えられることばかりで、やはり「すごいなあ」とびっくりすることの連続だ。遊びって、つくづく「本気で遊ぶ」ものなんだなあと思う。子どもたちは「遊び半分」からしだいにギアが入り、ぐいぐいと本気になっていく。そこからいろんなものが生まれる。鬼ごっこでの風のごときスピードやトリッキーな身のかわしかた、手づくりの武器を使った勇者たちの決闘、そこに強いお姫様が乱入したり、松ぼっくりやかたつむりの殻でつくる宝物、ブロック製の龍や積み木の城に住む魔女たちが繰り広げる物語とか。
もちろん私は立場上「先生」だから、危険なことは止めなきゃならないし、不公平がなるべく起きないよう、気を配らなくてはならない。だから半身は大人を保ちつつ、でもなるべく一生懸命遊ぶようにしている。
感性が鋭いゆえに神経質と思われたり、好きなことがはっきりあるがゆえにわがままだと思われがちな子もいる。でも、子どもたちは本当にどんどん変わっていく。自分の話しかしないなあと思っていた子が、いつの間にか下級生を心配そうに見守っていたり。何事も間違えるのが嫌いで「失敗はなぜ成功の元なのかわからない!」と言って頭を抱えていた子が、お散歩をしながら「あー、気持ちいい!」と、空に向かって手足をぽんぽん投げ上げ、心から楽しそうに笑っていたり。
最初の頃は、失敗したって大丈夫なんだよってことをあの子にどう言えば伝わるのかなあ、などとずっと考えていた。それが、いつの間にか「大丈夫」になっている。その子は「やってみる」ことの楽しさを体で知って、失敗がそんなに怖くなくなっているみたいなのだ。
子どもを見ていて感じる驚きは、土からいろんな芽が勝手に出てきて、花が咲いた時の驚きにちょっと似ている。

いろいろ踊ってます。

4年ほど前から週1回通っているバレエクラスで、バレエ以前の動きの基本として「とんぼのめがね」(先生の呼び名)というのをやった。両腕を思い切り伸ばして、思いっきりのびやあくびをするように、内側から外側へ外向きに回すのである。体の前に巨大なとんぼの目玉の形をを描くように。平泳ぎの腕ともちょっと似ている。こういうふうに腕を動かしながらだと、脚も楽に動く。温泉に入った時みたいにあーっと声を出しながらでも動かしてもいいですよ、と先生。たしかに、この動きをしていると、声もよく出る。歌っている時の体に近いのかな。
「子どもが『ママ大好き!』って言ってる時の体です。逆に外から内へ回すと『ママ大嫌い!』の体です」と先生。
ああっ、と私は思った。内回しは間違えるのが嫌いなあの子が「いやなことがあったの」「わからないわからない!」と言っている時の体、外回しは「あー、気持ちいい!」と言っている時の体だ!
腕をぐーっと伸ばしつつ外回しにし、心の中で歌いながら踊ったら、びっくりするほど身体がのびのびとして、なんだか涙が出た。
尚、内回しのほうは、興奮しすぎている時にやると良いそうだ。大人でいえば「やってらんねえぜ」の体って感じだろうか。外向きの前向きばかりでは疲れてしまうものね。

そして今年2月末に、近所にできたダンススタジオでHIPHOPもかじり始めた。これは、osameさんが書かれていた体操教室のお話の影響が大きい。60代から80代の方々が旬の音楽に乗っていきいきとHIPHOPダンスを踊っている、というお話だ。うちの近所に広いダンススタジオができて、体験が500円だったので、これは私もやってみなきゃ!と思ったのだ。
正直なところ、私はバレエもHIPHOPも、なにを踊ってもギャグにしかならないんだけれど、でもいいんだ、楽しいから。それに、先生がとてもていねいに教えてくださるので、体の使い方をできる範囲でマネしていくと、ちょっとそれらしいポーズになる。8割ギャグだけど、今このステップだけ私、決まってない!? と思えたりするのである。
たとえば、デコルテの空いた夜会服を着て滑るように旋回するイメージのバレエと、ひょいっとポッケに手を突っ込んだまま、全身でビートを刻むようなHIPHOPのステップ。重心の取り方やリズムの取り方を変えると、体にいろんなカルチャーが入ってくる感じで楽しい。そして、体の中に、今まで意識したこともなく固まっていた筋や筋肉がいっぱいあることに気づく。
ダンスのジャンルは違っても、基本のところは共通している。体幹を鍛えて細く使いそれ以外のところはできるだけリラックスさせること。体の部分を独立させたり、連動させたりして自由に使えること(アイソレーションとコーディネーション)、そして何より音楽に乗ること。

ポンコツ化と加速する時間、
そしてこれからどうするか?

このマガジンのテーマは「ベテランフリーたちはどう生きるか。これまで・これからの働き方」なのだけれど。ひどく回り道をしている、かも。ここまで趣味とアルバイトの話だけではないか、と思われるかもしれない。
もちろんライター・編集業は続けているのだが、すみかができたことと、子どもと関わる仕事も始めたことで働き方の意識が変わってきている。家賃の心配はなくなったものの、郊外に引っ越したため交通費が余計にかかるし、家の改修費用もかなりかかった。でもライターが本業なんだからそっちを頑張らなきゃ、みたいな気持ちがなくなっているのだ。稼ぐことは大事だが、報酬は結果論で無駄なことは何一つないなあと思う。

ダンスや演劇など芸術系の取材記事をたくさん書いてきたくせに、コロナ禍の中でよく聞かれた「芸術は〝不要不急〟ではない、人生に必要なものだ」という言葉を心からは信じていなかった。でも、本気で遊ぶ子どもたちを見ていて、何か腑に落ちたことがある。アートもスポーツも「遊び」だし、打算も目的もない純粋な遊びは、たしかに必要だ。
捕まえたり逃げたり、奪ったり闘ったりすることは生き物にとって自然な動きなのに、今の社会では「じっとしていられない」のはダメなことで、場合によっては暴力的とみなされてしまう。でも、一定のルールのある遊び(スポーツ)の中でならいくらやってもいい。舞台の上や物語の中でなら、人殺しも妻子ある人との大恋愛でもできて、しかもそれで人を楽しませることだって可能なのだ。

話は変わるけれど、この間テレビで絵本作家の五味太郎さんのインタビュー番組をやっていて(Eテレ「続・五味太郎はいかが?」)その中に長新太さんの「ちへいせんのみえるところ」とご自身の「うみのむこうは」という絵本が出てきた。
「ちへいせん」は、枯野のような黄色い原っぱが舞台で、ページをめぐるたびに「でました。」というせりふとともに、ちょっと機嫌が悪そうな男の子の顔やエイ、巨大な船、ペンギンを乗せた氷山など、いろんなものが出てくる。「うみのむこうは」も、画面の半分くらいの高さに水平線があって、ページをめくるたびに「むこう」の世界が変わる。畑や、摩天楼のある街や、お化けのいる夜の世界や、むこうからこっちを見ている男の子や。
何が出ようといいわけ。長さんの原っぱや海はプラットフォームなの。自由になるためのプラットフォームは絶対にいる」と五味さん。「内なる欲望に身を投げ出してればいいんだよね」「本気のくだらなさまでいってみたいっていうのがあるよね。もうちょっと期待してて、オレに」とも言っていた。カッコいいな!!
本気で遊ぶことは、「自由になるためのプラットフォーム」を育てることなんじゃないかと思う。長さんや五味さんにとっての原っぱや海みたいなもの。何でも受け入れられるダンサーや武道家、スポーツマンの体も、そのまわりの空間もプラットフォームだ。どんなに大それた夢や嘆きや呪いを空に投げ上げても、どんなに激しい喜びや怒りを込めて地面を踏みならしても、空や地面は絶対にそれを受け止めてくれる。
昔は「遊んでばかりいないで勉強しなさい」とか、「どんなに部活に打ち込んだってどうせプロにはなれないんだから」みたいなことを言う大人が多かったと思う(今もそうか?)。でも、本気の「遊び」はそれだけで価値あるもので、「プロになれる(お金を稼げる)かどうか」は、たぶん本質的な問題ではない。むろん、私もアートやスポーツを生業として生きる人への限りない尊敬と憧れはもっているけれど……。

「プラットフォーム」の感覚はおそらく一人ひとり違うけれど、身も心も健康でいるためには、つねにそこに戻っていけることが必要なんだろうなと思う。遊びに夢中になっているときは疲れを知らなくて、エネルギーが切れたとたん、こんこんと眠る子どもみたいな体。

私自身についていえば、もともとぼんやりしていた頭がさらにポンコツ化して、予定をダブルブッキングしたり、財布や携帯を置き忘れたり、ダンスレッスンに行くのに着替えをまるっと忘れるなど、ひどさが加速している。それと、体感時間の加速度も恐ろしい。一週間前のことが一昨日くらい、半年も前のことがせいぜい2、3ヶ月前としか感じられない。時間の進み方が、明らかに10年前の倍に感じられるのだ。
今のところまあ健康なので、自分は平均寿命くらいまでは生きると勝手に思っていたけれど、このまま加速度が3倍、4倍になるならその年は瞬く間に近づき、このまま何も成し遂げずぼんやりしたまま一生が終わっちゃうんじゃないかとリアルに感じる。実は周囲のお友達が俳句で賞を取ったり、小説家として活躍していたりするため、自分だけ取り残されているような気がしてひどく焦ったり、落ち込んだりもする。あれ、「成し遂げる」ってそもそも何をなんだろう? 

わからないのだが。
五味さんのいう「内なる欲望」は、自分の中にも何かあるなあと思う。今は誰かに必要とされること、自分の気持ちが動く方向に向かって動くこと。一生懸命遊ぶこと。

最終回だというのに、やはり全然まとまりません。
でも、このマガジン「ゆるフリー」の仲間たちにたくさんの刺激を受けて、たくさんのことを考え、曲がりなりにも形にすることができました。
「ゆるフリー」はここでいったんおしまいになるけれど、これからもみんなの働き方、これまでとこれからについて知りたいし、おしゃべりしたいなあと思います。

まとまらぬ長文をここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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