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土井啓史の自己紹介③-大学生活

■就活のためのゼミ生活

慶応義塾志木高等学校を卒業した僕は、世に言うエスカレーターで慶応義塾大学総合政策学部に進学しました。エスカレーターと言われている所以は、高校3年生の冬に氏名記入欄と3つの枠が書かれた紙が配られ、希望の学部を記載すると、その通りに進学できるという仕組みです。頑張って受験勉強した方々には申し訳ないという気持ちがなんとなく出てきます、、、。

大学1年生は自由さのあまり、気ままに遊んで過ごしたものの、大学2年生からは就職活動を意識し始めます。

そもそも僕が慶応義塾大学に進学したのは、父と同じように大手の会社で出世するという経歴を歩むためでした。だから僕にとって、就活というのはとても大きな意味を持っていたのです。就職でよい会社に入れるかどうかでこれから先の人生がほとんど決まってしまう、そのように考えていました。

そのため、2年生に進級すると同時に、選択するゼミは、「就活に有利なゼミ」を優先しました。結果として僕が選んだのは、キャンパスの中でも当時1〜2を争うほどハードなことで名高い、企業の戦略人事を研究するゼミでした。

どれくらいハードだったかというと、グループワークの課題が何度も出されて、毎日深夜まで仲間と議論をし、徹夜をするのがあたり前という生活です。まさに気絶するまで議論をするという毎日です。寝袋を持参して教室の長机の上でよく寝ていました。

多くの課題をこなしてきたので、企業人事にはかなり詳しくなりました。大学卒業から20年以上たった今でも、組織論、マネジメント、個人のキャリアや、チームビルディングといったものに関心が高いのは、この頃のゼミ生活の影響が大きいかもしれません。

■2度のNEC内定とバイト生活とバックパッカー

ハードなゼミ生活のおかげもあり、就職活動は何社か内定をいただき、「日本の最先端技術に携わる会社で働きたい」、「営業の現場で数年間経験を積み、その後は人事のプロとして働きたい」という希望を聞いてくれたNECを選びました。

就職が決まって喜んでいたのも束の間、卒業を満たす単位が足りなくなり、留年が決まり、内定が取り消しになり、翌年にもう一度NECを受け直したら、また内定をいただくという事件が起きました。というか、引き起こしました。坊主にして、父に頭を下げ、卒業までの半年間の学費を出してもらうことをお願いしたのを覚えています、、、。

結果的に就職が1年間伸びたのと、必要単位もわずかだったことから、沢木耕太郎氏の「深夜特急」に影響を受け、数ヶ月朝から晩までバイトをして、数ヶ月海外でバックパッカーをし、帰国後にまた数ヶ月朝から晩までバイトをして、また海外に数ヶ月行くという経験することができました。

バイトはネットプロバイダの店頭営業、訪問販売、引越し、家庭教師、ビアホールのホールスタッフ、居酒屋のキッチン、携帯電話の販売、ヤマザキパンの工場勤務、ゴルフ場のスタッフ、深夜の交通量調査など、様々な仕事を経験しました。

バックパッカーは西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、中東、アジアを中心に3回に分けて計15カ国ほど周遊しました。行きと帰りのフライトだけ取って、宿は現地調達、街に飽きたら次の街を決めて、地球の歩き方を片手に大きなリュックを背負って放浪をするという経験をし、様々な国の文化、民族、信仰を肌で感じ取るという貴重な体験でした。この時の体験は書ききれないので、何かの機会に綴りたいと思います。

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