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シナリオ書きが持つべき「間」の感覚

小説という物語の描き方とは違い、世の中には「シナリオ」というタイプの描き方がある。
これは、例えば映画やアニメ、ゲームやマンガなど、そういった、文章以外でもストーリーを表現する手段のある媒体における、物語の描き方だと言える。
こういった種類の「シナリオ」には、小説と比べたときにより一層注意しなければならない物がある。
それはもちろん小説においても意識の必要なものだが、なにより「シナリオ」には大事な要素だ。

それは「間」(ま)である。

この間は、一瞬の空白時間や、沈黙、一呼吸、物と物のあいだ等、日常的に様々な場面に現れる概念である。
そしてそれは多くの場合、「そこになにもないこと」を表す。
しかし、シナリオにおいて、間とは必ずしも、なにもないことを考えるものではない。

先述したように、シナリオとは文章だけでなく、それ以外のクリエイティブなものによってもストーリーが表現されるものだ。
そして往々にして、ストーリーとは、すなわちシナリオとは、他の全てよりも先に書かれるものである。
なぜならば、ストーリーがもととなって、他のクリエイティブが表現すべきものが決まるからである。
そうして動き出した全体は、それぞれが相互作用しながら形を変えていき、最終的な作品としてたどり着く。
そのスタートを切るのがシナリオである。

そのため、シナリオを書くときに理解すべき「間」というのは、シナリオ以外が担う予定の「演出」のことである。
例えばゲームシナリオであるならば、ゲームシステムはどうなっているのか、効果音やBGMはどんなものか。
具体的にどのようにストーリーを読むことができ、そこで展開される背景や立ち絵はどのように動かせるのかなどなど……

つまるところ、
・実際に文章が読まれているのと同時に起こる
・文章が読まれる前後で展開される
なにがしかの効果・演出、操作などの部分を、シナリオは「間」として理解しなければならない。

それは確かに、間という本来の意味である「空隙」に近い感覚だ。
シナリオではコントロールできない部分、表現に限界のある部分なのだから、シナリオとしてはなにもないのに等しい。
しかし、その空いた部分に、どのようなものが、どうやって入ってくるのかということを意識する。
それが、シナリオを書く際に間を考えるということである。

文章のみで構成することのできる「小説」作品と違い、「シナリオ」は文章以外にも様々な表現が「演出」などとして作品に組み込まれる。
だからシナリオは、ただストーリーを表現するだけにとどまらず、その演出が入り込む余地である「間」を理解しなければならない。
これはすなわち、シナリオが適応される媒体において、どのような演出がどうやって入るのかを把握すべしということである。
そのようにして書くシナリオは、作品全体にフィットし、全ての出発点となるのに相応しいクリエイティブとなる。

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