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男女に「とらわれている」のではなく、「とらわれさせられている」

 性別というくくりで最も馴染み深いのは「男女」だ。これは人間に限らず、多くの生物にとってそうである。雌雄は生き物がその命を繋ぐために編み出した役割分担で、単純ゆえに運用しやすいのが特徴である。
 けれど、この男女という枠組みはあくまでも「大多数」の生き物にとって当たり前というだけで、必ずしもそれが運用されなくとも命を繋ぐことは充分に可能だ。そもそも性別がなかったり、雌雄同体であったり、別の性があったりと様々である。
 それだからか、私達人間においても「男女」というのは昔ほど絶対的ではなくなった。あるいは、そうしようと取り組んでいる。そこには自由を求める意思と、旧来的な伝統の対立がある。男女を認めるのは古い考えで、もっと新しい地平に踏み出すべきだと。

 しかし、このように男女が古いものだと考えられている、ということを人間の罪だと考えても仕方のないことである。なぜなら私達は、実際には好き好んで「男女」を適用しているわけではない。もちろん、それがもう長い間「そうであるから」、今更変えようというのも大変だという怠惰な理由はある。だがそれを考慮しても、人間にとってこの「男女」の呪縛はとても解き難いものであることは事実だからだ。
 なぜならば、男女という性別にこだわっているのが私達なのではないからだ。むしろ男女という役割、その歴史的分担こそが、人間をこだわらせている張本人なのであるから。
 即ち、そもそも人間というのは、概してそこまで自由に生きることのできる存在ではない。遺伝子の乗り物だとか言われるように、生まれ落ちた時から物質的な化学反応によって言動を形作り、人生を歩んでいるにすぎないのである。
 意思というのも脳の神経細胞の繋がり方や電気信号の流れ方という、身も蓋もない説明によって片付けられてしまう。それほどに、そもそも「私達」という存在は、本当は何処にいるかも曖昧で、突き詰めれば自分というものが何処に存在するかわからなくなってしまうものなのだ。

 それゆえに、この「男女」という枠組みも、考えてみれば明らかに「私」よりも先に成立したものだと言うことができる。つまり、社会的な性役割としての男女はともかくとして、生物としての男女という明確な差異は、もはや歴史的遺伝的生前的なものであり、どうにかすることはできないものである。その純然たる事実がゆえに、私達はずっと、この「男女」というものをとらわれさせられている。というより、それを無視することなど不可能になっている。
 いわば、人間よりも上位存在である男女という概念を、ないものとして扱うことも、考え直すこともできない。

 とはいえ、それでもなお、私達は挑戦を続けていくのならば、男女という枠組みを解体していくことになる。それが成功するか失敗するか、良いのか悪いのかということは結果次第だ。何よりも認識を改めるべきなのは、まず、私達は男女にとらわれているからそうするのではない。とらわれさせられているからこそ、その遺伝子的な認識にどうやって抗い、進もうとするのかを考えねばならない。

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