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「本気になり切れない」ことを“安っぽい”と言う

イラスト、演出、演技、映像、セリフ、物語……創作されたものを指して、「安っぽい」と表現されることがある。これはつまり、それらのどこかしらが「本気になり切れていない」ことによって起こるのだ。

考えてもみてほしい。こういった創作というのはなんのためにあるのか? 私たちは何に期待して、その創作物を見ようと思うのか? それは、「リアリティ」だったり「疑似体験」だったり、「感情移入」だったりと……要は、その創作物を通して、私たちは「体感」「共感」したいのである。感情を動かしたいのだ。

それなのに、肝心の創作物側が感情的でなかったらどうだ。何か体感や共感を届けるに至らない中途半端な状態だったらどうだ。つまり、「本気」でなく、適当に、「これくらいでいいか」で済ませていたら、観客は興ざめである。

せっかく、心を動かしに来てるのにもかかわらず、ふたを開けてみたらまったく、世間体だの、プライドだの、儲けだのを気にして、肝心の「創作的価値」を軽視する。そのような創作物は、見向きもされなくなって当たり前である。なにせ、それはもう価値がないのだから。創作的に。
仕方のない「安っぽさ」というのはある、という声もある。予算的に、技術的に、納期的に、どうしても間に合わないクオリティになってしまうということは。
けれど、それは観客側からしたら関係のないことだ。それは創作ではなく、創作者側の問題だから。実際、見る側が考慮する必要のない要因である。創作は結果主義なのだ。

そういうわけで、“安っぽい”とは、「本気でない」ことを言うのだ。そして、創作に本気でないとき、それは安っぽい。これは、けして擁護できないものである。創作物が安っぽいと感じられたとき、それは必ず、創作者が「手を抜いている」ことの証左だ。だから、創作者は肝に銘じておかなければならない。どこかで気を抜いていると、必ずそう見られているのだということを。

創作物におけるクオリティというものの第1歩は、まずこの「安っぽさの回避」というところにあるだろう。ここをいかに少なくしていくか。あわよくば完全に安っぽいところのない創作ができるか、というところに、その創作物の、ひいてはその創作者の面白さというのは表われてくる。
その面白さというのは、つまり、観客が感情を動かせるか、ということである。その創作の根本にかかわってくるからこそ、創作は安っぽくあってはならない。手を抜く暇はどこにもない。

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