オリジナリティへのごかい ⑤自分
オリジナリティという言葉とその意味は強い。そして現実的に、「オリジナリティ」と言う時にそれは良いものとして使われる。つまりオリジナリティはすごいものなのだ。それが生み出されることは尊く、神聖で、代えがたく、素晴らしい。
しかし考えてみると、オリジナリティとはそんなに神聖的なものではないはずだ。すごくもない。尊いなんてもってのほかだ。オリジナリティというのはなんだか曖昧な価値を持つもので、それがどこからどこまでを指すのかよく分からないことさえある。そう考えていくと、これをそこまで特別視する必要がどこにあるのか?
オリジナリティは誰でも持っているものである。少なくともそのはずである。確かに代えがたいものであるかもしれないが、それが神聖とまでいくのは考えすぎなことは分かる。
つまり、オリジナリティに対してそこまでの感想を持つのはやりすぎだということだ。この考えは、オリジナリティがもたらす効能と、それそのものの価値を混同してしまうことによって起こるものだ。オリジナリティとは、なんらかの結果をもたらすための原資であって、価値そのものではない。道具であって成果ではない。
そのことを踏まえずに、オリジナリティを神聖視することは、即ちそれそのものを全く見間違えていることになる。
あるいはそれは、オリジナリティを理解しようとしないことと同義である。それは神聖なものではないが、しかし、蔑ろにしていいものではない。どこにでもあるものだが、それは路傍の石というわけではもちろんない。
つまりこの大切な概念が存在するべきは、自分自身の中だということである。だからそれは、人の数だけあり、それだけありふれたものだということである。しかし無論、それは自分自身と同じだけ大切に扱わなければならない。
オリジナリティが注目されるのはその結果についてがほとんどである。その方が良く目に見えるからだ。しかしその大本はあなた自身の中にあり、大切にすべきオリジナリティはそこにこそある。その結果いかんにかかわらず。
それが、オリジナリティへの誤解と五戒の1つである。
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