秋の別れと、しいちゃん。

 しいちゃんは文句ばかり言う子だった。当時、小学生だった私たちクラスの中でもそれは本当に有名なことで、担任の松井先生すら、朝の会や帰りの会でしいちゃんが後ろの方の席でにこりともしないで、何か言いたげに黒板の方を見据えているのを気にして、いつも会の終わりに決まって、「何か質問ある人?」と遠回しな確認をしいちゃんにして、それがないとあからさまにほっとしたような顔をして、いつもより1.5倍くらい大きな声で、解放されたように、「おはようございます」や「さようなら」の号令をかけるのが、可笑しくて笑いをこらえるのが大変だったくらいだ。

「給食。なんで毎日きつねうどんじゃないのかな」
道端でふと、しいちゃんが言う。私は話そうと思っていたことを先に取られたような気分がして、しまったと思った。しいちゃんが話を始めたらきっと長い。このまま家に着くまで、このきつねうどんのことを話すことになるかもしれない。
 その日は木枯らしの強い秋の日で、一軒家やマンションが立ち並ぶ住宅街の中に、突如として広く敷地を取られたフキ畑が、もう枯れ枝のみを残しているその横を、車に気を付けながら下校していた、そんなときだった。
「おあげ美味しいよね」と、私の隣にいた莉理が頷いた。クラスの中でも1番背の高い彼女は、よく皆のことが見えているからか気配り上手だった。いつもみんなのことを気にしていて、みんなに合わせて笑って、クラスを代表をして先生に意見することもよくあった。だから莉理は好かれていたし、多分、莉理は家よりも学校の方が好きなのではないかと思う。
 彼女が私の方を見るので、私は適当に頷いてしまった。単に、ちゃんと話を聞いていなかったからだ。
 莉理には沢山の友達がいたが、登下校をするのはしいちゃんと私のことが多くて、きっとその理由は家が近所だからだと思っていた。今日の内に、その真偽を確かめようとタイミングをうかがっていた。けれどしいちゃんに取られてしまった。莉理の背負うランドセルの金具が、カチャカチャと歩き度に音を立てるのが聞こえる。おしりからうなじまでが広い背中に背負われる赤いランドセルは色あせていて、塗装が剥げて下の白い素材が見えている部分が、痛々しい傷のようで私はあまり好きではなかった。
「違う。麺が美味しい」
 しいちゃんが道路の方へ伸びてきていたフキを手で折りながら答えた。莉理にも負けず劣らず背の高い彼女だが、なにより体格が良かった。太っているというわけではないけれど、スポーツの習い事をしていて全国大会にも出たことがあると言う。その肩書のおかげで、しいちゃんはしいちゃんでいられた。私はいつもそう思っていた。
 そんなしいちゃんの言葉に、莉理は「そっか」と言った。そっけない返事なのではなくて、莉理の中で何か考えているようなそぶりだった。けれどしいちゃんは自分の結論が絶対的な正義だと信じて疑わないから、莉理のそれを肯定だと受け取ったらしい。そのまま話を続ける。
「美味しいよ。だから麺を倍にすればいいのに」
 それは男子しか食べきれるものではないだろう。2人は身体が大きいから大丈夫だけど、少なくとも自分は無理だと思う。フキ畑を過ぎて私たちは「どんぐりロード」に出た。木枯らしが背中からフキの青くさいにおいを運んでくる。振り返ると、まるで見送るようにして、フキ畑の枯れ木たちが手を振っていた。莉理もそれに気づいていたのか、私たちは顔を見合わせて笑った。
 立ち止まっていた私たちを見かねて、しいちゃんが声を荒げる。「どんぐりロード」は、自転車や歩行者のための長い長い道路で、市をまたいでずっと向こうまで続いている。しいちゃんは、向こうから来た自転車を気にしながら、私たちを手招きしている。私と莉理ちゃんは、自転車が落ち葉を巻き上げながら横切るのを待って、しいちゃんに合流した。
「莉理は何が一番好きだったの」
 そう、しいちゃんはいきなり聞いた。莉理はきょとんとして私たちに歩幅を合わせて家へ向かおうとしていたその足を、止めた。早く答えろと言わんばかりに、しいちゃんは莉理を見つめていた。まるで、その答えを聞くまではここから家には向かわせないと言わんばかりに。
 給食の話の続きだと気づいた莉理は、たまに出てくるプリンだと答えた。ついでのように聞かれた私は、チキンライスだと答えた。文句を言われるかと思ったが、そうではないようだった。

 それぞれの家へと向かう別れ道に差し掛かるまで、しいちゃんの学校の文句を4回は聞いた。今までも、確かに登下校時は志位ちゃんが一方的に話すことが多かったが、こんなに色々なことを、言い収めのように話すことは初めてだったと思った。
 とうとう、私たちは別れなければならないところにやって来た。今日で、こうして一緒に帰ったり、登校したり、学校で話したりするのは最後になる。それは3人ともわかっていた。なぜなら、莉理が転校するからだ。それは突然の出来事で抵抗する暇もなく、莉理自身は私たちよりもずっと前から知っていたことでもあったが、言いだすことができずに直前になって私たちに知らされた、運命の別れ道だった。
「大人って勝手よね」と、しいちゃんは莉理と、ついでに私を睨んだ。
「ごめんね」と莉理は反射的に謝った。でもしいちゃんは「莉理じゃなくて大人」と、きっぱりと言い切る。
「大人じゃなくて、子供だけの世界だったらいいのに」
「そ、それは……」
 流石に、莉理はそれはどうだろう、という態度を示した。私もそう思った。しいちゃんは本気でそれがいいと思ったのかもしれないけど、大人がいなければ子供が生きていけないことは明らかだし、何より、大人がいないということは親も先生もいなくて、それはちょっと、考えられない話だった。
「莉理のランドセル、結局、最後まで古いままだった」
 しいちゃんは傷だらけのそれを指さす。一度だけ、私も莉理から聞いたことがある。このランドセルは姉のお下がりで、その時からもう古くて、でも新しいものを買ってもらえないから、仕方なく背負っているのだと。自分には似合わないことがわかっているけど、これしかないのだと。
 莉理はあいまいに頷いた。今更どうにかできることではなかった。それきり、私たちは話題を失くして、どんぐりロードの端の方で立ち尽くしていた。さわさわと落ち葉が乾いた風を乗せてアスファルトに落ち、間もなく、冬がやってくることを身をもって教えてくれていた。
「じゃあ、またね」
 口火を切ったのは莉理だった。ランドセルを背中ではね上げるように躍らせ、その勢いに任せて、1歩2歩と帰路へと後退さる。ボロボロのスニーカーの踵で踏んだ落ち葉たちが、ガサガサと音を立てて砕けた。
「……ばいばい」と、私は返すので精いっぱいだった。お別れとはこういうものかと思った。まだ、実感は伴っていなかった。だから悲しさなどは全く感じてなどいなかった。多分、まだそれは学校にいるのだ。だから私が家に帰って、夜になって、ご飯を食べてお風呂に入って寝る時になって、それは追いかけてくるのだろう。
「プリン、覚えたから」
 しいちゃんはそう言って、仁王立ちで莉理を見送った。莉理はその言葉に笑顔をこぼした。最後に、しいちゃんは文句を言うのかと思っていた私は、びっくりを隠せなかった。でも、変な別れの言葉だと思った。

 案外あっさりしたものだった別れ。莉理の小さくなっていく赤いランドセルは、秋の紅葉の中でもしっかりと私と、しいちゃんの目に焼き付いていた。隣にいるしいちゃんを見上げると、やっぱり、なんだか文句を言いたげだったのが、なんだか安心した。
「私も帰るね」
 そう言うと、しいちゃんは「うん、また明日」と言った。
 私はその言葉に頷いた。
 多分、明日のしいちゃんは、今までで一番、文句が多くなるか、それとも少なくなるかのどちらかだろうと思った。

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