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謝罪の響かない時代

謝るということが、こんなにも薄まるときはあっただろうか。
誰かに対して謝罪するということが、こんなにも形式的で、意味を持たず、気にかけられないことが。

少なくとも個人のレベルでは、まだ、目の前で謝罪をする、直接謝罪の言葉を届けるという意味で、まだ謝罪は「濃い」。
けれど、社会的なレベルになると、途端にその希薄さは高まってしまう。そんな気がする。

著名人が、企業が、政府が、どこかの世界が。
なにか、遠くの方で謝っている。
それに対して様々な意見が飛び交う。
その間にまた、別の謝罪がやってくる。

そんなことを繰り返しているうちに、謝罪は薄まりやすくなってしまった。
これは多分、受けとりかたの変化がまずあるのだろう。

私たちは簡単に情報を手に入れられるようになり、また、簡単に情報を発信できるようにもなった。
そこで、自分との関係がかなり薄いなにかについても、それを知り、語ることができるようになった。
だから、謝罪にまつわる当事者でないのに、それを受け止め、考え、話すことができてしまう。

そしてもう一つは、それは裏を返せば、いちいち関係のないことに意識を割かねばならないということだ。半ば強制的に。
すると私たちは麻痺してしまう。あるいは、鈍感になって自分の身を守ろうとする。

それが、謝罪の薄まったということの意味なのだ。

最早、謝るのは意味のない行為になりつつある。なにせ、それをしたところで響かないのだから。
そのことに薄々勘づき始めている人々は、もう心のこもった謝罪はしない。その場をやり過ごす形式的な謝罪しか為さない。
そうやって世界から、謝罪はどんどんなくなっていく。

過度な謝罪は確かに無意味だと思う。だが初めから、それを諦めるのも変な話だ。
多用な意見が発信される世の中、そのバランスをとるのも、判断するのもまた、難しい。

ともあれ、現代の謝罪は希薄になっている。
そのことをどう受け止め、これから私たちがどのようになっていくのかは、まだわからない。

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