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「敵キャラ」はなぜ、テンプレ的に主人公の邪魔をする?

 フィクションであるからには敵は敵でなければならない。「敵キャラ」はそういうキャラクターとして成立するが、「味方キャラ」にはそういう決まったイメージはない。
 要するに、ステレオタイプの悪役というのは存在するが、ステレオタイプの味方というのは存在しないのだ。主人公を中心としてただ役割が違うだけなのに、なぜ、敵には「敵キャラ」のテンプレート(おきまり)があるのだろうか?

 これはひとえに、敵とは「目的」であるからだ。あるいは「障害」といってもいい。

 たとえば主人公がいて、そこには何かを為す運命がある。主人公とはカメラを向けられる中心人物ということだから、必ずそうやって、注目に値する行動なり事件なりがつきまとう。
 そしてその運命の描写には、それと真っ向からぶつかるものが不可欠である。なぜなら運命とは決まり切った物事のことだから、ただそれだけでは波乱もなく波風も立たず、目立った何かが起きるわけでもなく、要するにつまらないのだ。

 そこに真正面から挑むのが「敵」というわけである。

 彼らは、主人公の決まり切った運命を予定調和にさせないように立ち回る。もちろん、敵には敵の目的や運命があり、それらが絡み合うことで、全体としての起伏がより際立つ。
 これは、味方にはできない役割である。なぜなら味方とは、主人公を手助けする役割を持つからで、基本的にはその運命を大きく変えるために存在するのではない。
 一方で敵は、下手すれば主人公の進むべき道を行き止まりにしてしまうことだってできる。それくらい大胆に、主人公を中心としたフィクションの世界を動かせるのは、「敵キャラ」くらいなものである。

 即ち、敵とはフィクションにおけるかなり重要な立ち位置にあり、敵がいなければ、その作られた世界の面白さは半減してしまう。だから「敵キャラ」にはテンプレがある。たとえそのキャラにプロフィールがあっても、それとは別に、「主人公の運命を動かす」という役割を持っているのだ。その役割の比重が、味方キャラよりも重たいからこそ、敵はまず、「敵キャラ」という職業のような「あるべき姿」が適応されてしまうのである。

 フィクションにおいて、敵は敵でなければならない。それは、敵キャラは敵キャラとしての役割を担うべきだということだ。ある種それは、かわいそうな運命でもある。「敵キャラ」はフィクションの中での自由が少なく、しかし今日も彼らは、波風を立て、一筋縄ではいかない運命を演出し、フィクションを盛り立てている。

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