「確かに」のぶつかり合いが面白い

 私達が感じる面白さとは何か。ストーリーやキャラの掛け合いといった、会話を含むコンテンツに対して、私達はそれをただ見ているだけでは面白いと思うはずがない。
 特徴あるキャラ達の言い合いには目を引くものはある。ハラハラするストーリーにも、先が気になる展開にも興味をひかれる。しかしそれ以上に、コンテンツには必要なものがある。

 それは「確かに」だ。そのぶつかり合いが、まさに面白い。それがなければどうしたって、コンテンツには味気がない。むしろ、その「確かに」を味わうために、私達はコンテンツを視聴しているとすら言える。
 そんな「確かに」達がぶつかり合うこと、譲れない主張同士がしのぎを削ることこそ、表すべきコンテンツの命題である。確かに。だがもちろん、ただの確かにではこの場合には不充分である。

 確かには納得感のことで、そしてそう思える言動や、展開や、シチュエーションなどのことである。
 つまりこれがぶつかり合って面白いためには、キャラ達の「確かに」がぶつかり合わねばならないということだ。何か他の確かにでは意味がない。私達がそのコンテンツを視聴する際に、感情移入先となるのがキャラだから、それらにとって納得感があり、譲れない何かがぶつかり合うことこそが面白いのだ。

 コンテンツには色々な確かにが含まれる。よくあるのは以下の3つだ。

・人間としての確かに
・作者としての確かに
・キャラとしての確かに

 人間としての確かにとは、たとえば3大欲求。お腹が空いたとか、眠いとか、誰かが好きだとかそういったもの。これらはぶつかり合っても、そんなに視聴者には響かない。当たり前すぎるからだ。お腹が空いたと言うキャラと、眠いというキャラが対立しあっても、その確かには当たり前すぎて、全然キャラらしさがない。
 そんなぶつかり合いなど、見てても面白くないのだ。だからこの確かには薄く、コンテンツの魅力を増すには心もとない。

 また、作者としての確かにも同じである。少し人間味が出てくる個人的な悩みや好みなどが出てくるものの、キャラごとに個性が出にくく、ぶつかり合いが予定調和になりやすい。作者とはひとりの人間だから、そのひとりがただ、役割を変えてぶつかり合いごっこをしているだけである。
 作者の確かに達がしのぎを削っても、ただそのように見えてしまうだけなのだ。

 だから大切なのは、キャラそれぞれの確かにがちゃんとぶつかり合うことである。それがコンテンツの本当の面白さを見せてくれる。引き出してくれる。
 キャラの「確かに」はそのためにある。コンテンツの制作者がするべきことは、そのために「確かに」を考えることである。適当なものではなく、キャラクター毎の「確かに」を

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