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伏線回収したって納得できない時がある

 物語とは結局のところ、納得感を提供できないのなら、伏線を回収しようがしまいが同じである。あたかも伏線とやらが、そしてそれを回収することが玄人感があってかっこよくて、そしてそれを理解できる自分がすごいなどという、的はずれな物語の楽しみ方がある限り、粗悪な伏線回収はなくならない。

 伏線とは、それが回収されるからすごいのではなくて、見事な回収のされ方にこそ感動するものなのである。それは時として思いもよらないところから、物事と物事が繋がってくること。ちょっとしたきっかけだと思っていたものが、後々に大きな意味を持ってくること。何気ない会話の裏に、とんでもない情報が眠っていたこと。
 そういったワクワクするような、明らかになってあっと驚くような伏線回収は、誰しも憧れるものである。そんなし仕掛けの施された物語を面白いと思うものである。
 だから、勘違いしてしまう。それは伏線の力ではないことに。それはあくまで、伏線の回収の仕方と、そしてそれを伏線とさせ続けられる物語構造のすごさなのである。

 多くの場合、伏線には賞味期限がある。なぜなら、物語は始まりから終わりまでを順番に見ていくものだからだ。刻々と変化する状況、人物、事件についていきながらも、どこかでぽとりと落とされる伏線の種を、一体どれほどの人が憶えていられるだろうか。
 むしろ伏線は、それと分かった瞬間に、「あそこだったのか」と思い出されるものであるはずだ。だから、その思い出せる範囲でしか、伏線はそれとして機能しないのである。
 だから、もし意図して伏線をちゃんと運用したいなら、というよりも伏線を成り立たせたいのなら、その対応関係が憶えてもらわれ続けるように、色々と仕掛けを施さなければならない。
 それをしながらも、ギリギリまで答えを見せない。つまり、伏線を置くのとそれを回収することの間に時間があればあるほど、伏線回収の驚きは大きく、感動もひとしおである。
 例えば伏線の発端となった何かのイメージが繰り返し出てくるとか、タイトルに絡んでいるとか、主人公の周辺に影響を及ぼしているとか、そういった思い出すきっかけとなる物事が、伏線を回収する以前に必要である。 

 そうでないところで、勝手に伏線をおいたり、あまつさえそれを勝手に回収してみたりするのは愚の骨頂である。伏線とは、それを置く瞬間も回収する瞬間もすごいのではない。すごいのは常にその間だ。
 どのようにして伏線を維持したまま物語を続けるのか、そういった創意工夫こそ伏線の醍醐味である。そしてその維持のままに解放することが、読み手への裏切りもなく、変な創造をさせることもなく、そしてなにより最も納得感のある伏線回収である。

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