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今回のおすすめ本 坂口安吾『暗い青春』

みなさんこんばんは📚
今回おすすめするのは、坂口安吾『暗い青春』という本です!本作は安吾の自伝的小説を集めたものとなっています。

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石の思い

 私=石と定義し、父母との関係について蕭々と語っていきます。幼い頃、私は母とは憎悪によって繋がりがある一方で、父とは繋がりを感じられない私がいます。作品を通して「私」は愛されたい祈りを抱いていることが感じられます。
 幼い頃に体験した家族との関わりが、その後の人生において尾を引いてしまうことが描かれています。この作品における父は子どもとの接し方がわからない人物だったのでしょう。

二十一

 「僕」は仏道修行に身を置き、青道心ながらも続けているうちに睡眠時間が減っていき、神経をすり減らしていきます。結果として神経衰弱にかかってしまいます。誰かと話していなければおかしくなってしまうと思った「僕」は、旧友だった辰夫が入院している精神病棟に足繁く通うようになります。
 現在の日本でも精神疾患、特にうつ病の患者数は500万人を超えているとされ、人口比率は4%となっています。作中にもあるように何もしていないとネガティブなことばかり考えてしまうので、何か集中して取り組めるもの(読書やパズルなど)を用意しておくといいのではないでしょうか。

暗い青春

 「私」は芥川龍之介が自殺した二、三年後の家に通うようになります。それは芥川龍之介の甥である葛巻義敏とともに同人雑誌をだすために芥川家を編輯室にしていたからです。葛巻の部屋は陽当たりの良い部屋だったにもかかわらず、私は「暗い家」だったと記憶しています。それは芥川家が暗かったわけではなく、「青春」という時期が暗いからだといいます。「青春は絶望する。なぜなら大きな希望がある。」(p.66)の部分が特に有名だと思います。青春時代は可能性に溢れています。歳を重ねた大人がこぞって学生に勉強をさせようとするのは、現代日本では未だ学歴社会が根強いことや、知識を身につけることが経済的安定に繋がりやすいからでしょう。しかし、あるのは可能性だけです。数多ある可能性を現実にすることは基本的に難しいと思います。自分の理想と自分の現況とのギャップが大きければ大きいほど絶望しやすい時期なのではないでしょうか。  
 本作では芥川龍之介が自殺した家を職場にしているなど、「私」のデリカシーのなさが垣間見えます。現在ならすぐに炎上しているでしょうね…。

二十七歳

 「私」が新進作家とよばれていた頃のお話。私の初恋となる矢田津世子との思い出を綴っています。しかし、矢田津世子との恋愛は私にとって苦しいものでした。矢田津世子を思い浮かべ、当時の自身の想いを浮き彫りにするために、当時関係を持った女性たちを回想しています。そして彼女たちに共通していたのはどこか「寂しい翳」が漂っていることでした。中原中也との出会いも描かれています。
 過去の思い出は澱のように心の奥底に陰となってへばりついていくものだと思います。時が経てば記憶は都合の良いように改竄されていきますが、それは心を守るためのオート機能なのでしょう。

いずこへ

 矢田津世子と別れた後のお話。自分の思い描いた落伍者に通じる道はどこにあるのか、いずこへ向かえばいいのかを想起しながら探っていきます。ここで登場する「私」はデカダン的な雰囲気を醸し出しています。肉欲に興味を持たないと言いながらも肉欲に溺れていく私。そして私の行路は行き場のない涯のない無限の行路だと感じ、自分自身がわからなくなってしまいます。
 作中では「堕ちるところまで堕ちてしまおう」という描写がされています。これは堕落論からつながる考え方ですね。

三十歳

 矢田津世子との再会から永劫の別れまでのお話。「いずこへ」で登場した女との別れの後、実家に帰ります。三、四日経った後、矢田津世子が三年ほどぶりに再訪してきます。かつての恋心を経て会わないうちに、互いが幻想を抱き数年を過ごしています。しかし、その甘い幻想は再会することで崩れ去っていきます。
 矢田津世子という人物は「私」に取って嫌悪と愛好を抱く存在です。しかし、世間一般的に見れば愛好に傾く存在だと思われます。「私」と矢田津世子の歪な関係は、歪だったからこそ成立していたのでしょう。

古都

 東京にいることにやりきれなくなった「僕」は京都に行くことにします。京都で宿泊することとなった場所で碁をする毎日が続きます。さらにここで出会った人たちは揃いも揃って個性の強い者ばかりです。基本的には貧しい人が登場していますが、その理由として人柄が関係していることが示唆されています。
 作中には渾名に言及している部分があり、渾名とはその人の属性が反映されていて、それが人生観の大根幹をなしていると述べられているところが印象に残りました。注意点として、これは外面的特徴には当てはまらず、内面的特徴に当てはまるものだと思います。

居酒屋の聖人

 茨城県取手町の酒屋兼居酒屋におけるお話。ここでは「トンパチ」と呼ばれるコップ酒が特徴的で、「僕」は足繁く通うようになる。トンパチ屋に訪れる常連客は酔っ払うと「俺を総理大臣にしてみろ」と気焔をあげます。こうした気焔を上げるのは皆怠け者の百姓だということに気が付きます。「僕」はこれを見て鬱々としますが、宿屋のおばさんには聖人と呼ばれるなど、周囲の評判は裏腹になっています。
 自分より酷い醜態を晒している人を見ると血の気が引いていく感覚に似ているのかもしれません。

ぐうたら戦記

 日中戦争の始まりから太平洋(大東亜)戦争終戦までのお話。戦争が始まった際には世間も周囲の人もピリついているのにもかかわらず、「私」は普段と変わらないぐうたら生活を送っています。「私」は戦争を壮大な見世物としておもしろがり、戦争が始まった際には日本は滅びて自分も滅びると諦めていたため楽天的な生活を送ることができたといいます。作中では例のトンパチ屋を拠点としながらも、1年間なにも書けずにいた時期でした。
 本作では「書けない」時代を過ごした「私」の卑下が戦争に対する諦念と相まってどこか寂しい響きを感じます。しかし、ぐうたらな性格によって「私」は楽観的に生きることにつながっています。まさに「死は希望」なのでしょう。

死と影

 矢田津世子と別れてから「私」には死の翳がまとわりついていることを自覚します。「いずこへ」の女が開いたバーに行き酒を貪り、女の店で泊まるようになります。牧野信一が妻の浮気に心傷して自殺したことを、「私」は憐れみます。しかし、これは死の翳がまとわりついている自分にも同様だと思うに至ります。
 生物であれば死は常に内在しているもので、それを意識下に浮かび上がらせるのは言葉なのではないかと思います。死の翳と聞くとなんとなくはわかりますが、実際にどういうものなのかを言語化するのは難しいでしょう。こうした「なんとなく」を他者に伝えることができるのも言葉の利点であり欠点ではないでしょうか。

是非お手に取って読んでみてください☕

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