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【日記】小説家デビューしたら、無口な父がいちばんに「面白い」の言葉をくれて、ちょっと泣けた。



 意外にも、真っ先に「面白い」の言葉をくれたのは、ほかの誰でもなく、父だった。発売日の本当にすぐあとに、連絡をくれたのだ。自分の親ならばべつに「意外にも」というほどではないんじゃないかと思う人もいるかもしれないが、私にとってはやはり「意外」だった。なぜなら私たちには、あまり仲の良くない時期があったからだ。

 子どもの頃の我が家は余裕があると言えるような状況ではなく、いつもどこかピリッとした空気が流れていた——ように、思う(あまりに前のことなので記憶もかなり曖昧だ)。父も張り詰めていたのだろう、家族のために必死で働く傍ら、思春期の娘とどう接していいかわからないようで、当時の私と父が言葉を交わすことはほとんどなかった。
 というのはもちろん、私が31歳になった今だから冷静に語れることで、10代のころの私は、父と母がどんな思いでお金を稼いでいるのか、家族を守らなくてはならないというプレッシャーがどれだけ大きいのかなんて、微塵も想像できていなかった。たかだか16、17かそこらの、一度も挫折を経験したことのない小娘は、学校に通い、教科書に載っている『山月記』に共感しただけで世界のすべてを知ったような気になっていた。世の中で働く「大人」たちはみんなバカだと見下し、そしてもっとも身近な「大人」である両親のことは、よりいっそう、バカにしていた。自分は絶対にそんなふうにはならない、もっとかっこいい人間になれると信じて疑わなかった。そうやって、まわりに存在するありとあらゆるものを見下すことでしか、安心できなかったのだと思う。あるいは、「自分は何者でもない」という事実と直面するのが怖かったのかもしれない。

 そんなわけで、情緒不安定な学生の私と、しんどくても毎日会社に行ってお金を稼がなければならない父のあいだには、途方もなく深く、太い溝ができていた。同じ家に住んでいても、父のことが理解できなかったし、何を話せばいいのかもわからなかった。ファッションや化粧、恋愛、好きなアーティストの話など、同性で話しやすい母親とはちがい、父親は無口でたまにしか話さなかったし、話すネタも思いつかなかった。

 その溝に少しずつ、橋がかけられはじめたのは、社会人になってからだ。
 大人になり、社会人になり、一人暮らしをするようになり。会社でさんざん怒られ、自分が使えない人間だと痛いほど思い知らされ、両親が当たり前のようにやっていた「毎日会社に行って働く」ことですら、こんなにもしんどいのかとようやく、理解するようになった。
 私は、「特別な誰か」では、なかった。何者でもなかったのだ。
 がんばらなくても、苦労しなくても、鼻をへし折られなくても、「できる人間」である自分でいたかった。雑用ができなくても、それを差し引いて有り余るくらいの、クリエイティブな才能を発揮できる人間でいたかった。まわりの人たちに、「あなたにはこっちの才能があるから、大丈夫だよ」と励ましてもらえる世界を望んでいた。でもそんなもの、当然ながら存在するわけもない。
 私はただの「仕事ができないヤツ」であり、おまけに(上司からすれば)もっと最悪なことに、「仕事ができないくせにプライドとクリエイティブな仕事へのこだわりだけは強いヤツ」だった。私は社会に出て、その現実とようやく向き合うことになった。向き合わざるを得なくなった。

 あるときふと、思った。

 こんなに苦しいことを乗り越えて、そのうえであの人たちは、家族3人分の生活費を稼いでいたのか。
 信じられない気持ちだった。いったい何度、謝りたくもない相手に、頭を下げたのだろう。自分が悪くないのに、責任を取って「私がなんとかします」と言った回数は? 上司の顔を立てるために、自分がバカなんです、いつも〇〇課長の指導のおかげなんですと愛想笑いをした回数は? あるいは、大きなミスをして落ち込んだ次の日に、私の送り迎えをしてくれていたり——したの、だろうか?

 ぼんやりと薄い記憶の中に浮かぶ景色がある。父が「疲れた」とひとことだけ言って帰ってきて、ぐったりと背中を丸めて、黙って缶ビールを2本飲んでいた。ぼーっとテレビを見て、「おお」とか「うん」とか、それしか言わなかった父は、未熟な私はただ「無口な人」としか思っていなかったけれど、本当は、その裏で、どれだけの——どれだけの、荷物を、背負い込んでいたのだろう。
 本当はもっと愚痴を吐きたかったんじゃないか。あの上司め、とか、あのクライアント、ひどかったよとか、そういうことを言いたかったんじゃないか。なのに目の前には、なぜか一方的に自分に牙を剥いている、繊細でぴりぴりとした、静電気をまとったみたいな17歳の小娘が座っていて、彼女はケータイをぽちぽちといじるばかりで、どう話しかけたらいいのか、きっと、わからなかっただろう。
 私は父のことをずっと、すごく無口な人間だと思っていた。ごはんを食べ終わるとすぐに部屋にこもって眠ってばかり。
 そうじゃなかった。たぶん私が、そうさせていたのだと思う。そうせざるを得ない状況だったのだ。


 私が小説を出版したのは、2023年12月。今から2ヶ月前。31歳になってすぐのころだ。
 これまでに、いろいろなことがあった。私は若い頃に一度結婚し、そして離婚した。その数年後、別の人と結婚した。仕事も何度か変え、フリーランスになっても落ち着くことがない。両親には、ずいぶんとはらはらさせてしまったと思う。
 とはいえ、よくなったこともある。
 父とできる会話が増えていた。
 きっかけになったのは、仕事の悩みを父に相談したことだ。こういうことができなくて、もっとこうしたいんだけど、なかなか。まわりの人にも言いづらいし。
 帰省したとき、家族で飲みながらそんな仕事の愚痴をこぼすと、思いがけず、「そうだよなあ」と共感の声をあげたのは、他の誰でもなく、父だった。
 私はてっきり、私という人間は、母に似ているものだと思っていた。けれどもよくよく聞いてみると、働き方や、仕事で大事にしているポリシーみたいなものは、つくづく、父にそっくりだった。とくに教わったわけでもないのに、だいたい同じくらいの年齢のときに、だいたい同じような仕事の壁にぶち当たって、だいたい同じような悩みと葛藤していたという父が、ひどくおかしかった。そして、救われた。
 この仕事での挫折が、父との長いあいだのぼんやりとした違和をほどいてくれるきっかけになるなら、挫折した甲斐があったじゃないかと、そう思えた。そして、親は子どもにとっていちばんの味方とよく言うが、私には、自分とかなり似た挫折をしてきた人間が、今もこうして、もちろんさまざまな紆余葛藤こそあれ、ここに生きているのだという事実だけで、じわりと元気が出た。親を同志だと思うなぞ、ひどくおこがましいとは思いつつ、それでも、嬉しかった。

 さて、そんな父だった。もうとっくに、高齢者のカテゴリに半身つかっているくらいの年齢だが、父は、『元カレごはん埋葬委員会』を、発売後まっさきに「面白い」と言い、そして、いちばんの営業隊長になってくれたのだった。発売から1週間たらずのうちに、「13冊売れました」というメッセージが、親指マークの絵文字つきで、届いた。おいおい、まじで!? 13冊ってすごくない!? びっくりしているうちに、さてまた次と、父は自分の人脈を駆使してか、私の小説デビュー作を売りまくってくれたのだった。

 発売から2ヶ月経った今でも、つい何度も、父がくれた「面白い」のメッセージを読み返してしまう。
 まず、
「面白い」ときて、
そして、その2日後に、
「完読しました。 良かったよ、何度も泣きました ありがとう」
 とメッセージがあった。

 本音を言うと、怖かった。とてもとても怖かった。『元カレごはん埋葬委員会』というこの物語は、もしかしたら、つまらないんじゃないかと、何度も思った。もちろん自分では精一杯のものを出したつもりだ。これ以上ないくらい出し切った。構成もセリフもキャラクターも、妥協しなかった。でもいくら自分が面白いと思っていても、「これを面白いと思えないなんて、センスない」なんて断言できるほどの強いメンタルを、残念ながら私は、持ち合わせていなかった。きっとつまらないと思う人もいるだろう。つまらないと言われたら、私はもしかしたら、もう立ち直れないんじゃないかとすら思っていた。
 そんなときだった。発売日直後、真っ先にきたメッセージには、父からの熱い感想が綴られていた。ここがよかった、あのシーンが泣けた、あのキャラが好きだというその文章は、「親なのでひいき目です笑笑」という、父らしくない、「笑」が2個もついた文章で締め括られていた。

 いや、「父らしくない」というのは、おかしいな。ちがう。私が一方的に勘違いしていただけだ。
 父は本当は、饒舌な人だったのだ。はじめから。
 よかったなあ、と思った。よかったなあ、よかったよ。うん。書いてよかった。
 書いてよかった。心から、そう思った。

 小説を書くというのは、楽しい一方で、ひどく怖い作業だ。
 自分の内面をさらけ出すというか、魂みたいなものをこめないと、物語は面白くならないし、そうして仕上げた作品を人前に出すのは、やっぱり怖い。「誰がどう思おうが、これは面白いんだ」なんて、どうしても私には思えなかった。私にとっては、やっぱり「面白い」と言ってもらえないと、それは面白かったことにはならないのだ。

 でも、小説を書くことで、つながる縁もあるのだと、書き上げてみて、はじめて知ったこともあった。
 不安定ながらも、大人になってからちょっとずつより合ってきた父と私の縁は、小説を出したことで、がっしりと強く結び直されたような感覚があった。
 発売後の今も、父はPR活動を続けてくれているようで、父の知り合いに挨拶させていただく機会も増えたり、反対に、家族を『元カレごはん埋葬委員会』の刊行記念イベントに呼んだりもした。大人になってからしばらく会えていなかったのに、小説が出たおかげで、会う機会が格段に増えた。それは明らかに、この小説が持つ力だ。

 父だけではない。
 本をきっかけに「久しぶりに会おうよ」と縁がつながった旧友もいた。
 一緒に仕事をしたいと思っていた人と、仕事をする機会をたくさんもらった。

 自分で書いた本なのに、こんなことを言うのはおかしく聞こえるかもしれないが、ただ、私は心から、この本に、『元カレごはん埋葬委員会』に、お礼を言いたい。
 ありがとう。
 感謝の気持ちや、「会いたい」という気持ちを素直にぶつけるのには、けっこう勇気が必要だったりする。
 私はこの10年近く、忙しさを言い訳に、好きな人に会いにいくことや、素直な言葉を伝えることから逃げていたところがあった。
 でも『元カレごはん埋葬委員会』を書いたことで、この本を広めることで、いろいろな人との縁がつながった。これは予想もしていなかったことだ。

 書くことも、PRも、「やれることは全部やる」を合言葉に、思いつく限りのことをやってきた。その途中、「ここまでやってダメだったら恥ずかしすぎる」という不安も、もちろんよぎった。
 でも自分で作った一冊の本が、こうして、途切れかけていた運命をつなぎ合わせてくれたのを思うと、素直にやってよかったと、そう思う。

「報われる」というのは、実は、いろいろなかたちをしているのだなあと、最近は、そんなことをよく考えている。




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