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『ヘディングはおもに頭で』(角川書店)西崎憲 著

 みなさんは、フットサルという球をつかう運動をご存じだろうか?

 上記の説明で察したと思うが、私はフットサルをよく知らん。

 そもそも運動全般が大嫌いだ。

 最小限の動きだけで生活をし、菓子食って、じいっと本を読んでいるのが好きだ。

 なので、走ったり、球をなんやかんやする行為が嫌いだし、なんだったら、そういった類いの書籍も可能な限り避けてきた。

 ──のに。

 帯にある「うつむくあなたに、この物語を贈る。」という言葉にひかれてしまった。
 
 そして、この言葉に偽りなく、うつむいてばかりいる私が読んでよかったと思えた。

 本書の感想をまず最初に言わせてもらうなら、

 この作品にある、頼りないが確実にある光を感じることすらできなくなったら、私にはもう希望も情熱もないのだろう

 という、心の温度計となる作品だと思った。

 さて、ここからネタバレにならない程度に、作品について紹介させてほしい。

 主人公は松永おん。志望する国立大学の受験に二度失敗し、浪人生活を送る青年だ。弁当屋でのアルバイト、そしてフットサル、あとは必死でやるべきなのだろうという気持ちはまだ消えてはいない受験勉。これが、彼の生活のほとんどすべてだ。

 弁当屋のバイトは、おん以外は年配の女性ばかりで、彼にとっては居心地のよい空間ではなかった。しかし、実家を出て一人暮らしをする彼が生きていくためには、アルバイトは必須だ。彼はチャーマーズの哲学的ゾンビさながら、心を無にして働く。彼にとって、アルバイトは苦痛でしかない。

 だが、そんな彼にも楽しみがある。

 それが、フットサルだ。

 とはいえ、もともとおんは運動が得意なタイプではなかった。むしろ苦手なほうだった。そんなおんだが、高校時代の友人である智樹から、フットサルを一緒にしようと誘われる。フットサルとサッカーの違いもよくわからず、しかもサッカーは体育の授業でプレイした程度だったが、もう一人の友人であるジブと共に、おんは参加することにした。

 はじめて降りる駅、はじめて参加するフットサル。そこでおんは、自分が体育の授業が苦手だったのは、早生まれが原因だったことなどを考える。

 早生まれは体力的に不利だ。小学校低学年くらいだと、体力の差がかなり露骨にでてしまう。ただ、それが早生まれが原因であるとわかるのには、随分とあとになってからだ。幼い子供同士の狭い世界では、運動が苦手な子となり、そのレッテルを否定する知識が本人もまだないために認めざるを得ず、深い根を張るコンプレックスとなる。おんも、やはりそうだった。

 コンプレックスが、早生まれという条件によって生まれてしまったことに大人になって気づいたおんは、フットサルのゲームをプレイしている途中で、自分が特別劣っているわけではないこと、そして、このゲームが楽しいことを知る。

 体を実際に動かすことが運動なのだが、それを苦手か得意か、好きか嫌いかを決めるのは、結局頭なのだ。
 
 フットサルは基本的に足をつかうゲームで、体を動かさないとどうにもならないのに、頭で考えることは多い。チーム戦であるからには、仲間のことを知らなければならないし、当然相手がどんなタイプか、オフェンスかディフェンスか、ボールさばきが得意か、こちらのミスを狙ってくるタイプか、そんなことを考える必要がある。

 これはスポーツだけに限った話ではない。
 
 おんもやはりフットサルだけ考えて生きていけるわけもなく、大学試験のこと、すこし気になる後輩のこと、その後輩がヌード写真を出したこと、あえて浪人のことは口にせず気遣ってくれる──それが良いことなのか否かはさておき──友人のこと。

 そして、体調を崩した母のこと。

 時間だけが進んでいき、おんは考えなくてはいけないことが積み重なっていく。

 時間というものは、あたかも自分と共存しているようで、でも、自分と時間は別ものであり、自分を運んでくれるわけでも、レールを敷いてくれているわけでもない。

 どうして、こうも、勝手に進んでいくんだ。

 なにもかも嫌になって、逃げたくなる。

 おんもそうだった。

 自分の人生になに一つ間違いはなく、自分は完璧な人間だ、なんて思える人はなかなかいないだろう。でも、逃げずに立ち向かうことが「正しいこと」と主張する人は少なくない。自分に足りない部分があれば、そこを埋めるために必死に努力する人間こそが素晴らしい、と。

 確かにそうなのかもしれない。

 だが、どうやっても埋められない、自分のなかの足りない部分というものはある。

 少なくとも、私には。

 そして、おんにも。

 おんは双子だった。とはいっても、双子の弟は生後すぐに亡くなってしまった。なので、彼には自分が双子だったという記憶はない。それでも、半分を失ったような感覚はあった。

 私は、双子ではないが、おんの気持ちがわかる。

 なぜなら、私は生まれてくる予定の人間ではなかったからだ。

 私には、三つ上の姉がいる。私より遥かに容姿に恵まれ、賢く、そして驚くほどに手先が器用な人だ。

 私はよく、親戚や近所の人から「お姉ちゃんの出涸らし」と言われていた。だが、実際は出涸らしどころか、なにもなかったのだ。

 私にはもう一人姉がいるはずだった。いや、違う。私はいない予定だった。姉ともう一人の姉、それだけであの家の子供は終わる予定だった。

 ただ、もう一人の姉は、生まれてすぐに呼吸をやめてしまった。

 失った我が子への「空白」を埋めるため、両親はまったく望んでいなった三人目をつくることになった。

 それが、私だ。

 おんは本来いるはずの弟を失い、私は本来いるはずの姉の座に居座っている。

 なんだろう、この居心地の悪さ。おんとは状況がまったく違うが、自分のなかにある居心地の悪い「空洞」が、同じようにある気がする。

 これはなにも、身内を失った人だけにあるものではない、と私は思う。

 自分なのに、自分の体と精神なのに、なんでこんなにも異物のような空洞があるんだ。
 

 さて、この空洞を埋めるにはどうしたらいいのだろう。

 それはきっと、本書の最後におんが見た景色を、蹴ったボールを、そしてその頭で考えたものを、共にゲームをプレイする仲間のように、あるいはライバルのようにじっくり観察すれば、きっとあなたにも光が見えるはずだ。


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