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「メンやば本かじり」檸檬は爆弾となりうるのか編

 精神値最弱、そんなときは、喜怒哀楽の怒と哀が多分に自身を支配している。

 何となくだが、怒りや哀しみは消極的であるべき感情のように感じてしまう。

 だが、頭の中の喜怒哀楽を擬人化した映画「インサイド・ヘッド』(PIXAR)にもあるように、哀しみを表現することはとても大切だ。哀しめる心がある、だからこそ、悩み苦しむ人に寄り添うことができるのだ。

 では怒りは──。怒りは鎮めるべきや、不平や不満をSNSで吐き出すのは、あまり良い印象を与えない気がしてしまう。しかし、レストラン業界の暴露本とも言われる『キッチン・コンフィデンシャル』にて、著者のアンソニー・ボーデイン氏は、見習い料理人時代の自身の黒歴史を惜しみなく晒し、傲岸不遜な態度に怒りと、そこからの向上心の萌芽を記している。

 ただ、「腹立たしい」とか「哀しい」とか、そもそもそれすら曖昧なときもあるものだ。

 重くのしかかる、チリチリとした熱でもって神経を刺激され続けるのに、倦怠感と無気力をガッガッと詰め込まれる気分。そんなとき、ありません?

 怒っていいのか、泣いていいのか、この心持ちを発散するにはどうしたらいいのよ。

 そういえば、文芸評論家で有名な小林秀雄の『考えるヒント3』に、こんな言葉があったな。

ワグネルという人は、非常に苦しんだ音楽家だ、おし黙った悲惨に言葉を与え、苛まれた魂の奥に音調を見出す自在な力を持っていた、「隠された苦痛、慰めのない理解、打明けぬ告別のおどおどした眼差し」、そんな音楽にもならぬものまで音楽にする驚くべき才能を持っていた。

『考えるヒント3』(文春文庫)小林秀雄 著

 ワグネル(ワーグナー)のように、これらの感情を表現できる才能があればいいのだけど、凡人の私はどうしたらええんや。

 だれかー、レスキューミー。 

 無理か。

 仕方がない。

 こうなったら、梶井基次郎の『檸檬』(角川文庫)のように、鮮やかなる黄色の紡錘形へ、「えたいの知れない不吉な魂」を押し込め、ビルごと吹き飛ばすエネルギーへと換える秘技を出すか。

 ところで、なぜに檸檬が爆弾になるのか意味がわからない人もいるかもしれない。

 そんなわけで今回は、梶井基次郎の『檸檬』から考える、えたいの知れない鬱々とした感情の発散方法を考察してみようと思う。

 まずは、『檸檬』に登場する「私」の精神状態から見ていこう。

蓄音機を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二、三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私をいたたまらずさせるのだ。それで終始私は街から街を浮浪しつづけていた。

『檸檬』(角川文庫)梶井基次郎 著

 やばい。これは、やばいしかない。

 レコードを聴くというより、精神を蓄音機の針で削られているかのようだ。そりゃ、悠長に音楽を楽しんでいる余裕などない。

「私」は、肺尖カタルや神経衰弱、背を焼くような借金が原因ではないといっているが、それらがまったくの無関係ということもないだろう。

生活がむしばまれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。(…)そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。しかしここももうそのころの私にとっては重くるしい場所にすぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。

同上

 借金だけがここまで「私」の精神を貶めたわけではないが、一つの要因であるようだ。要因ではあるが、決定打ではない。

 あれもこれも、蝕む要素はいくらでもあるように思える。だからこそ、どうしたらいいのかわからない。

 手のひらで受け止めた泥のように、心は崩れ、指にざらざらとした感触だけを残して溢れ落ちていく。だが、そんな「私」に、一筋の光が差し込む。それが、果物屋で売られていた檸檬だ。

いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。

同上

 いくら好きなものでも、高嶺の花では一層精神を弱らせてしまう。だが、檸檬は違った。以前購入していた丸善の高級な鉛筆とは違い、手に入れることができるのだ。食べようが、飾ろうが、自分が最も心地よい状態で手元に置いておくことができる。これは、精神が不安定なときに、かなりの救いとなる。

それにしても心というやつはなんという不思議なやつだろう。
その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。

 本書の「私」も、檸檬を手に入れたことで心のバランスをとることができたようだ。

平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。
「今日はひとつ入ってみてやろう」そうして私はずかずか入って行った。

同上 

 好きなものが手に入ったとき、高揚感と満足感だけでなく、何か免罪符のような効能もあるように思える。例えば、この「私」なら、肺尖カタルや、借金などがひやりと冷たい檸檬の中に吸収されてしまう感覚。だからこそ、「私」は丸善に入ることができたのだろう。

 だがしかし、入ってみたものの、やはり不安や嫌悪感が心の中を彷徨い歩きだす。

しかしどうしたことだろう、私の心を充していた幸福な感情はだんだん逃げて行った。

同上

 そこで、「私」は店の本棚を飾る画本を手に取り、パラパラとやっては情緒を安定させようとする。

 こうしてついに、「私」はあることを思いつく。

「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげてみて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」

同上

 「私」は檸檬好きで、しかもその檸檬は、自分の熱や、えたいの知れない不吉な魂すら吸収してくれるように思えるのだ。

 とはいえ、檸檬にも限界がある。空気を入れすぎた風船が、大きな音と共に破裂するように。

 本書の「私」もそこに気付いたのではないか。気が付いたらからこそ、積みあげた書籍の上に檸檬を置いていくという「奇妙なたくらみ」が思いついたのだろう。

──それをそのままにしておいて私は、なにくわぬ顔をして外へ出る。──
私は変にくすぐったい気持ちがした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。

同上

 丸善に入るときは「ずかずか」だったが、出るときには「すたすた」になっている。この重さの違いとは──それはもちろん、「えたいの知れない不吉な魂」を存分に檸檬に吸わせたからだ。足取りに変化が生じるほどに一顆に詰め込んだのだから、これはもはや破裂寸前ではないか。

 つまり、檸檬は言葉や音楽として発散できない不穏な感情を、爆発してくれる装置となるのだ!

 ああ、よかった。どうにもならない感情に取り憑かれたときは、この『檸檬』を思い出せばいいというわけだ。

 さて、あなたも言葉や態度で明確に表現できない魂を、積みあげた書の上へ。

 体内に蓄積された静電気を除去器具へ移す様子が肉眼では確かめられずとも、確実に停滞していた電気を逃すことはできている。

 檸檬もまた然り。よって、檸檬は爆弾になれるのだ。

 ただし、爆発させるか、オブジェとなるだけか、そこはあなたの自由。

 さあ、今夜は檸檬に身を委ねてみては、いかが。


◾️書籍データ
『檸檬』(角川文庫)梶井基次郎 著
 難易度★★☆☆☆ それぞれ短く読みやすいが、病と不吉な魂は蔓延している

 表題作の「檸檬」は、本書の一つ目から登場するが、「瀬山の話」にも再び登場する。ただし、内容もところどころ違い、「私」から「君」への語り調子となっている。ただ、ここに出てくる「私」と「君」は同一人物ではないか。

  

 


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